アブド・アッラフマーン1世との対決と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/20 13:50 UTC 版)
「ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン・アッ=フィーリ」の記事における「アブド・アッラフマーン1世との対決と滅亡」の解説
755年、ユースフはサラゴサで発生した反乱を鎮圧し、またパンプローナのバスク人討伐のため遠征隊を送ったが、この舞台は殲滅された。 一方南方からは、アッバース家によるウマイヤ家虐殺を逃れてアフリカのベルベル人の支持を獲得したアブド・アッラフマーン1世がアンダルスに侵攻し始めており、すでに南海岸が彼の手に落ちていた。ユースフは返す刀で南進し、アブド・アッラフマーン1世に奪われたマラガやセビーリャなどの要塞の奪回に向かった。 アンダルシアのイスララーム軍は、ユースフ派とアブド・アッラフマーン1世の二つに分裂した。大まかにいうと、イエメン族部隊が後者についたのに対し、アラブ人内のムダル族やカイス族はユースフに忠実であり続けた。ユースフはこのウマイヤ朝の末裔を自らの後継者とすることで折り合いを付けようとしたが交渉は決裂し、ついに756年5月に両軍がコルドバ近郊で激突した。このムサラの戦いでユースフは敗北、失脚し、代わってアブド・アッラフマーン1世が最初の独立アンダルス政権であるコルドバ首長国を建国した。 ユースフは辛うじて戦場から逃れ北方に逃れ、セビーリャ奪回を図ったが失敗し、トレドへ撤退する途中で殺された、もしくはトレドの要塞に2,3年立てこもった後に配下に殺害された。
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