ユースフ・アルフィフリーとは? わかりやすく解説

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ユースフ・アルフィフリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/02 09:29 UTC 版)

ユースフ・アルフィフリーアラビア語: يوسف الفهري, ラテン文字転写: Yūsuf al-Fihrī)(756年[要検証])は、後ウマイヤ朝アブド・アッラフマーン1世が実権を握る直前のアンダルスにおける最後のアンダルス総督[1]。691年ごろカイラワーンに生まれ、759年ごろトレドの近くで暗殺された[1]。カイラワーンの建設者ウクバ・イブン・ナーフィウ英語版の曾孫である[1]

ウマイヤ朝末期のセプティマニアナルボンヌ、後にアンダルスの支配者(747年 - 756年)。750年にウマイヤ朝が滅亡すると独立勢力としてふるまったが、アブド・アッラフマーン1世(アブドゥッラフマーン1世)に敗れた。

情報源

ユースフ・アルフィフリーの生涯に関する情報の情報源としては、以下のアラビア語文献が挙げられる[1]。とくに12世紀の著者不明の書物、『アンダルス征服における逸話集成』Akhbār majmūʿa fī fatḥ al-Andalus が詳しい情報を伝える[1]

これのほかに、『モワサックの年代記』 Chronicon Moissiacense の734年に関する記事に、ユースフ・アルフィフリーの南仏での軍事行動の情報がある[2]

名前と出自

ユースフ・アルフィフリーは、初期のムスリムの共同体国家の西方拡大に貢献し、軍営都市カイラワーンを建設したウクバ・イブン・ナーフィウ英語版の子孫である[1][3]イブン・ハルドゥーンはユースフの詳しい名前を、「ユースフ・イブン・アブド・アッラフマーン・イブン・ハビーブ・イブン・アビー・ウバイダ・イブン・ウクバ・イブン・ナーフィウ・アルフィフリー」(Yūsuf b. ʿAbd al-Raḥmān b. Ḥabīb b. abī ʿUbayda b. ʿUqba b. Nāfiʿ al-Fihrī)と記している[3]。しかしこの名前から読み取れる父系の系譜には誤りがあるようである[1][3]。ユースフの父「アブド・アッラフマーン」と、イブン・ハルドゥーンの系譜ではその父とされている「ハビーブ」はともにアブー・ウバイダの息子であり、ユースフはウクバの曾孫である[1]

生涯

Akhbār majmūʿa fī fatḥ al-Andalus を中心にしたアラビア語史料が伝えるユースフ・アルフィフリーの生涯は、おおむね、次のようなものである[1]

ユースフは691年ごろ、カイラワーンに生まれた[1]。ユースフの父系リネージが属するフィフル部族は、ヒジャーズのクライシュ族も一支族として包摂する、イエメンの名門アラブ部族である[1]。ウクバ・イブン・ナーフィウの子孫たちは「フィフル族の者」を意味する「アルフィフリー」を称して、ジブラルタル海峡を挟んだ二つの地域、すなわちイベリア半島と北アフリカ北西部の征服活動に参加していった[1]。なお、前近代のアラブ=ムスリムの地理認識においては、前者を「アンダルス」、後者を「マグリブ」と呼ぶので、以下では、この地理的名称を用いて叙述する。

ムーサー・イブン・ヌサイルのアンダルス征服時、これに参加したのはウクバの孫世代である[1]。ハビーブとアブド・アッラフマーンの兄弟はともにアンダルスへ渡り、征服活動に参加したのち、カイラワーンに戻った[1]。ユースフはカイラワーンで育ったが、父アブド・アッラフマーンが戻ると、父との折り合いが悪くなり、押し出されるようにアンダルスへ渡った[1]。時期はビシュル・イブン・サフワーンが統治していた721年から727年の間である[1]

ナルボンヌ長官

モワサックの年代記 Chronicon Moissiacense (en:Chronicle of Moissac) によると、トゥール・ポワティエ間の戦いののちにナルボンヌの長官に任じられた。彼はここでローヌ川下流域を荒らし、735年にアルルを占領したとされる[2]

内乱とベルベル革命

716年から756年まで、アンダルスはウマイヤ朝の首都ダマスカスから送られてきた代官、もしくはウマイヤ朝からの勧告を受けたイフリーキヤの長官によって統治されていた[4]。前任者たちと同様に、ユースフはベルベル人(ユースフの支持基盤)とアラブ人の内部抗争や、アラブ人内の長きにわたる氏族間抗争に悩まされた[5]

アンダルス統治

739年から743年のベルベル反乱を始めとしてアンダルスは極めて不安定な時期を迎えたが、混乱を乗り越えた後の747年にアンダルスの長官に就任したユースフは、750年にアッバース革命によりダマスカスのウマイヤ朝本国が滅亡したのちもアンダルスを支配し続けた。この時点でのユースフは、もはや長官(ワリー)ではなく王(マリク)に相当する存在だったと指摘されることもある。最高統治者となったユースフは、国内の人口調査を行った[6]。ホステゲシス司教が、租税と人頭税の納税者一覧を作成したことが伝えられている。司教たちは、税が確実に収められたことを確認するため毎年ユースフのもとを訪問させられた[7]

アブド・アッラフマーン1世との対決と滅亡

755年、ユースフはサラゴサで発生した反乱を鎮圧し、またパンプローナバスク人討伐のため遠征隊を送ったが、この部隊は殲滅された[8]。 一方南方からは、アッバース家によるウマイヤ家虐殺を逃れて北アフリカのベルベル人の支持を獲得したアブド・アッラフマーン1世(アブドゥッラフマーン1世)がアンダルスに侵攻し始めており、すでに南海岸が彼の手に落ちていた。ユースフは返す刀で南進し、アブド・アッラフマーン1世に奪われたマラガやセビーリャなどの要塞の奪回に向かった。

アンダルシアのイスラーム軍は、ユースフ派とアブド・アッラフマーン(アブドゥッラフマーン)派の二つに分裂した。大まかにいうと、イエメン族部隊が後者についたのに対し、アラブ人内のムダル族やカイス族はユースフに忠実であり続けた[9]。ユースフはこのウマイヤ朝の末裔を自らの後継者とすることで折り合いを付けようとしたが交渉は決裂し、ついに756年5月に両軍がコルドバ近郊で激突した。このムサーラの戦いでユースフは敗北[10][11]、失脚し、代わってアブド・アッラフマーン1世(アブドゥッラフマーン1世)が最初の独立アンダルス政権である後ウマイヤ朝を建てた。

ユースフは辛うじて戦場を脱し北方に逃れ、セビーリャ奪回を図ったが失敗し、トレドへ撤退する途中で殺されたか、もしくはトレドの要塞に2,3年立てこもった後に配下に殺害されたとされる[12]

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Molina, L. (2002). “Yūsuf b. ʿAbd al-Raḥmān al-Fihrī”. In Bearman, P. J. [英語版]; Bianquis, Th.; Bosworth, C. E. [英語版]; van Donzel, E. [英語版]; Heinrichs, W. P. [英語版] (eds.). The Encyclopaedia of Islam, New Edition, Volume XI: W–Z. Leiden: E. J. Brill. pp. 354b – 355b. ISBN 90-04-12756-9.
  2. ^ a b Collins, Roger (1989). The Arab Conquest of Spain 710-797. Oxford, UK / Cambridge, USA: Blackwell. p. 91. ISBN 0-631-19405-3 
  3. ^ a b c Fournel, Henri (1857), Étude sur la conquête de l'Afrique par les Arabes, et recherches sur les tribus berbères qui ont occupé le Maghreb central, Paris: Impr. impériale, pp. 95, http://catalogue.bnf.fr/ark:/12148/cb30454676z 2025年10月2日閲覧。 
  4. ^ Abun-Nasr, Jamil M. (1987). A History of the Maghrib in the Islamic Period. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-521-33767-4, p. 71.
  5. ^ Gerli, E. Michael & Armistead, Samuel G. (2003). Medieval Iberia: An Encyclopedia. Taylor & Francis. ISBN 9780415939188, p. 4.
  6. ^ Wolf, Kenneth Baxter (2000). Conquerors and Chroniclers of Early Medieval Spain. Liverpool University Press, ISBN 0-85323-554-6, p. 156.
  7. ^ Imamuddin, S. M. (1981). Muslim Spain - 711-1492 A.D: A Sociological Study. Brill Academic Publishers. ISBN 90-04-06131-2, p. 58.
  8. ^ Trask, R. Larry (1996). The History of Basque. London: Routledge. ISBN 0-415-13116-2, p. 12.
  9. ^ Collins, Roger (1989). p. 122.
  10. ^ Al-Sulami, Mishal Fahm (2004). The West and Islam: Western Liberal Democracy Versus the System of Shura. London: Routledge. ISBN 0-415-31634-0, p. 207.
  11. ^ Payne, Robert (1959). The Holy Sword: the story of Islam from Muhammad to the present. New York: Harper 
  12. ^ Collins, Roger (1989). p. 132.



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