久保木清淵(くぼきせいえん 1762-1829)
久保木清淵は、当時の(千葉県)佐原村に近い津宮村に生まれ、幼名を新四郎といった。幼くして、香取神宮別当寺の一つ根本寺の呑舟上人に学び、長じて数学、暦学、国学などに長け、私塾息耕堂を開くなどして子弟の教育にあたったといわれる。清淵と親交があった忠敬は、彼から漢学の教えを受けたといわれる。
忠敬の日記などによると、全国測量に際しては、下図の整理、図上への細字の記入など地図作製に携わった。そして、忠敬の死後も、平山季恭ら他の地図御用所員と協力して「大日本実測全図」の作製を担当し、「大日本沿海実測録」の草稿にあたったように、忠敬の一連の地図作成へ、清淵の果たした役割は大きいものがある。
忠敬測量隊が幕府御用であることを知らしめるために持ち歩いた「御用」の旗の文字は、清淵の書だという。

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