かなかんぶつの消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 08:14 UTC 版)
明治時代の文明開化政策において、山梨県庁でも民俗行事や習俗の簡素化が実施され、1871年(明治4年)から県庁から布達が発せられ甲府道祖神祭礼など江戸時代以来の習俗が廃絶している。1873年(明治6年)の県布達書では人生儀礼に伴う贈答習俗の簡素化が発せられ、「かなかんぶつ」もこれらの抑圧を受けて縮小し、祝儀帳や日記資料など在方記録においても衰退傾向が見られ、目の部分に穴を空け、背面に糸を付け「お面」として転用された実物資料も現存している。さらに、明治中期には中央線開通などにより五月人形や鯉のぼりなど都市部の節句風習の影響を受け「かなかんぶつ」を飾る風習は途絶し、節供風習は「外飾り」のかなかんぶつから「内飾り」の節句人形に変化した。
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