『解体新書』以降
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『解体新書』上梓以降も前野良沢のもとでオランダ語の学習を進めた。安永5年(1776年)、桂川甫周とともに江戸参府中のツンベリーを訪ねる。医学・博物学について教えを受ける。ツンベリーは、淳庵はかなりよくオランダ語を話すと記している。 また、商館長イサーク・チチングへ宛てた手紙が現存しており、流麗な筆記体で書かれている。ただし岩崎克己(『前野蘭化』の著者)によると、格や活用についての理解は不十分であるとのこと。もっともこれは中川淳庵だけの問題ではなく、次世代の大槻玄沢においてもオランダ語の格・活用は完全に理解されていなかった。ちなみに、自署として"Nakagawa Sjunnan"と記されている。 『和蘭局方』(オランダの薬局方の翻訳)、『和蘭薬譜』、『五液精要』の翻訳に取りかかるも、未完のまま世を去る。
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