『新巧暦書』と天保暦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 14:23 UTC 版)
「ラランデ暦書」の記事における「『新巧暦書』と天保暦」の解説
文化12年(1815年)、景保は『ラランデ暦書』の全訳を断念し、代わりに天文方の渋川景佑(景保の弟)とその部下足立信頭に『ラランデ暦書管見』の調査を命じた。そして『ラランデ暦書管見』および再入手した『ラランデ暦書』をもとに、文政9年(1826年)、2人は『新巧暦書』全40巻を完成させた。ただし『新巧暦書』は『ラランデ暦書』の正確な翻訳本ではなく、『ラランデ暦書』をもとにしながら、太陽や月、惑星の位置などの計算方法について、過去の書物と同じような伝統的な形式にのっとってつくられた書である。 天保12年(1841年)に幕府は『新巧暦書』を元にした改暦を命じた。そして渋川景佑と足立信頭によって天保暦がつくられ、天保15年(1844年)から施行された。天保暦は江戸時代に行われた最後の改暦となり、明治時代に太陽暦が採用されるまで使われた。なお、『新巧暦書』には、今後の『ラランデ暦書』の全訳事業を匂わせるような文章が書かれているが、実際にそういった作業が行われた形跡はないため、天保暦の完成により天文方の『ラランデ暦書』研究は終止符を打ったものと考えられている。
※この「『新巧暦書』と天保暦」の解説は、「ラランデ暦書」の解説の一部です。
「『新巧暦書』と天保暦」を含む「ラランデ暦書」の記事については、「ラランデ暦書」の概要を参照ください。
- 『新巧暦書』と天保暦のページへのリンク