『兵法三十五箇条』相伝のこと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/28 09:33 UTC 版)
「寺尾求馬助」の記事における「『兵法三十五箇条』相伝のこと」の解説
『兵法三十五箇条』が細川忠利公の命により書かれ献上されたものであることは、その文面にも明らかであり、弟子に相伝するためのものではない。寛永21年(1644年)11月、病のため家老の長岡佐渡・寄之親子らに説得されて、武蔵が霊巌洞から千葉城の屋敷に戻された(長岡寄之より宮本伊織宛書状)時、藩主細川光尚から看病のため差付けられたのが求馬助であった。この事は武蔵葬儀後に熊本藩家老長岡監物へ宛てた宮本伊織書状に明瞭に書かれている史実であり、求馬助は藩の公務として亡くなるまでの半年間の献身的な看病をした。寺尾家にはこのため武蔵自筆の水墨画が明治維新後まで複数伝来したが、なぜか『兵法三十五箇条』の自筆本は伝わっていない。おそらく献上本の写しを入手したものか、藩主へ献上の文言をそのまま弟子へ相伝物とするわけにいかず、5条加えて1条減らし、『兵法三十九ヶ条』として相伝の証としたと考えられる。
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