「造士館再興」の名の下に誕生した第七高等学校造士館
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「鹿児島大学」の記事における「「造士館再興」の名の下に誕生した第七高等学校造士館」の解説
藩学造士館は1871(明治4)年に廃校となり、造士館の名を持つ学校は消えた。1884(明治17)年、西南戦争を経て有望な若者を数多く失った鹿児島の現状を憂えた旧薩摩藩主公爵島津忠義が教育機関の設置を求めて多額の寄附を行った。これにより翌年3月、県立中学造士館が設置された。 その後、度重なる学制の変更に翻弄されながらも、1901(明治34)年には「第七高等学校造士館」が設置され、「造士館」の名を冠した地方の最高学府が誕生した。公爵島津忠重が政府の高等学校増設計画を知り、基金や建物・図書等を寄附したことがきっかけだった。藩校の流れを汲み、その館号まで受け継いだ旧制高校は全国でも七高ただ一校。 校舎は島津77万石の本城であった鶴丸城跡(現・鹿児島県歴史資料センター黎明館)に建てられ、学校に係る経費は1905(明治38)年まで島津家の寄附金によって賄われた『第七高等学校造士館開校九十五年記念誌』)。 七高は島津家の造士館再興の願いと造士館の建学の精神を受け継いだ学校だったのである。
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