「刎頸の友」について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:25 UTC 版)
田中・小佐野はともに、実際に相手のことを「刎頸の友」と呼んでいたわけではない。 田中角栄が実際に「刎頚の友」と呼んだことがあるのは入内島金一であり、1973年(昭和48年)4月26日の衆議院物価問題等に関する特別委員会において、日本共産党の小林政子が、上越新幹線上毛高原駅予定地周辺の土地買い占めを入内島が行っているのではないか、と質問したことに対する回答の中で、「私は、入内島金一君とは、四十年来の親友であります。これはもう刎頸の友であります。この世の中にある三人の一人であるというぐらいに刎頸の友である」と発言している。 田中自身は、『文藝春秋』誌での田原総一朗のインタビューに答えて、「私が国会で共産党の小林政子議員の質問に答えて、昭和九年当時からの友人、入内島金一君を“フンケイ〔ママ〕の友”と答えたら、それがいつの間にかフンケイの友、小佐野賢治君に書きかえられている」と発言している。これについて立花隆は、「フンケイ〔ママ〕の友に関しては、国会の議事録を引っくり返せば、田中にもすぐわかることだが、入内島金一のことを、「この世に三人あるフンケイの友の一人」といっているのである。それで残る二人のフンケイの友は誰かということで、どこかの週刊誌が調べたら、田中に近い誰に聞いても、小佐野賢治と中西正光(元東洋ゴーセー社長。新星企業事件に関連)の二人しかいなかったので、この三人がフンケイの友と呼ばれることになったのである。入内島、中西の二人は、滅多なことではマスコミに登場しないので、小佐野にこの枕詞がつくことが一番多いというだけのことである」と指摘している。 また小佐野は、ロッキード裁判において、検察官から「田中さんとは、“刎頸の友”といわれていますが、そういう間柄ですか?」と質問され、「私は“刎頸の友”といったそんな……自分でいった覚えはないのですが……」と発言している。
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