「パリの恋人」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 06:58 UTC 版)
「リチャード・アヴェドン」の記事における「「パリの恋人」」の解説
アヴェドンは1944年にモデルのドルカス・ノウェル(Dorcas Nowell )、通称ドオ・アヴェドン(Doe Avedon )と結婚していたが、二人の友人であった脚本家のレナード・ガーシェは、彼らの生活に着想を得てミュージカルの脚本の執筆に取り組んでいた。当初のストーリーは、ファッション写真家が嫌がる妻をなだめすかしてファッションモデルにしてしまうというものであった。この企画は最終的に映画脚本として完成し、オードリー・ヘプバーンとフレッド・アステアの主演で製作されることになった。これが「パリの恋人」(Funny Face )である。なお、本作にはヘプバーン以外にもドヴィマ、スージー・パーカー、サニー・ハーネットらアヴェドンのパリ・コレクション撮影でモデル起用された女性達が脇役として出演している。 映画の製作が始まったのは1956年の春であったが、その時点でアヴェドンは単なるファッション写真家を越えた存在となっており、その消息はしばしばニュースで報じられるまでになっていた。またアヴェドンが毎年2回行うパリ・コレクション撮影でのモデルたちとのエピソードも「モデルが勝手に夜遊びに出かけてしまい、撮影隊が夜のパリの歓楽街で捜索を繰り広げた」「撮影中にセーヌ河に落ちた」「モデルが金持ちのボンボンにナンパされて駆け落ちしそうになった」「撮影に集中しすぎてドヴィマがエッフェル塔から転落しそうになった」等面白おかしく伝えられるようになっていた。アヴェドンは「パリの恋人」に自ら撮影したファッション写真を多数提供した他、フレッド・アステアに演技上の助言も行なった。 ちなみにこの映画の撮影と並行して1956年のパリ・コレクション撮影も行ない、スージー・パーカーとロビン・タターサル(Robin Tattersall)がコンコルド広場でローラースケートをしている有名な写真はこの時に撮られたものである。2002年に焼かれたこの写真のオリジナルプリントは、2010年のクリスティーズのオークションでは、落札予想価格25,000~35,000ユーロを遙かに超える217,000ユーロで落札された。
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