「お伊勢参らばお多賀へ参れ」
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「多賀大社」の記事における「「お伊勢参らばお多賀へ参れ」」の解説
戦国時代の明応3年(1494年)には神仏習合が進み、神宮寺として天台宗の不動院が近江守護六角高頼によって建立された。神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢神宮・熊野三山とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。なお、当社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。
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