「"全ての"神々に愛されるもの」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 03:59 UTC 版)
「エウテュプロン」の記事における「「"全ての"神々に愛されるもの」」の解説
11. ソクラテスは、そう言いつつも、先程既に、個別具体的事例の検討したところで、敬虔・不敬虔の本質的規定とは関係無いことが明らかになったばかりなので、話を戻すことを提案。更に、先程の定義の修正案として、「"全ての"神々が愛するものが敬虔、憎むものが不敬虔」(神々の間で意見の一致をみないものは除外)という定義を提示。エウテュプロンも受容。 12. ソクラテスは、「愛されるもの」と「敬虔なもの」の関係性(つながりの必然性、包含関係)の考察を開始。例えば、「運ばれるもの」「導かれるもの」「見られるもの」等は、「運ぶ」作用・性質を受け取る(「運ばれる」)から「運ばれるもの」になり、「導く」作用・性質を受け取る(「導かれる」)から「導かれるもの」になり、「見る」作用・性質を受け取る(「見られる」)から「見られるもの」になる。同じように、「愛されるもの」も、「愛する」作用・性質を受け取る(「愛される」)から「愛されるもの」になり、「敬虔なもの」も、「敬虔」だから「敬虔なもの」になる。したがって、「愛されるもの」と、「敬虔なもの」との間には、必然的なつながりは無く、両者は別もの。 13. ソクラテスは、「敬虔なもの」にとって、「全ての神々に愛される」ことは1つの付随的な性質に過ぎず、その本質規定ではないと指摘。エウテュプロンは途方に暮れる。
※この「「"全ての"神々に愛されるもの」」の解説は、「エウテュプロン」の解説の一部です。
「「"全ての"神々に愛されるもの」」を含む「エウテュプロン」の記事については、「エウテュプロン」の概要を参照ください。
- 「"全ての"神々に愛されるもの」のページへのリンク