高柳賢三 略歴・人物

高柳賢三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/24 22:25 UTC 版)

略歴・人物

埼玉県熊谷市に生まれる。正則英語学校府立四中一高を経て、1912年東京帝国大学法科大学卒業[1]

1913年東京帝国大学大学院(旧制)中退し、東京帝国大学法科大学助教授。1921年東京帝国大学法学部教授(後に附属図書館館長兼務)を歴任した。イギリス法研究が主流であった時代に、1915年~1920年ハーバード大学ロースクールなどに留学し、違憲立法審査権などアメリカ法研究に本格的に取組んだ。ロスコー・パウンドRoscoe Pound)翻訳でも知られる。司法権優位を唱えた。

1926年4月、太平洋問題調査会の日本支部が発足すると理事に就任した[3]

戦後は1945年12月24日から帝国学士院会員[4](1947年より日本学士院会員)。1946年6月8日、貴族院勅選議員に任じられ[5]研究会に所属し1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した[1]

東京裁判で日本側弁護団の一人として加わり、重光葵鈴木貞一の担当弁護人となる。1948年9月にCIEで教職不適格とされ、同年11月に東京大学依願退官。1948年12月~1949年6月仙台法経専門学校副校長。 また、1949年7月~1957年3月には成蹊大学学長を務めた。

1956年鳩山一郎内閣下に設置された憲法調査会の会長となり、第1次岸内閣下の1957年には「憲法制定の経過に関する小委員会」において憲法の成立経緯を調査。翌1958年には渡米調査団の団長としても調査を行った。その後も、歴代の内閣で憲法調査会会長に就任し、1965年に退任。新憲法擁護の基本線を踏まえながら自衛権などで政府見解と憲法を如何に擦り合わせるかに力を振るった。

ハーバート・パッシンの勧めによって設立された「文化自由会議」に呼応する日本の組織「日本文化フォーラム」の初代会長を務める[6]

1964年11月3日、勲一等瑞宝章受章。1967年6月11日にヨーロッパ出張の帰路に香港で客死し、叙・正三位、賜・銀杯一組[7]


  1. ^ a b c 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』138頁。
  2. ^ 英米法学者としての田中和夫先生
  3. ^ 「恒久的な組織として設立、理事長に井上準之助」『東京日日新聞』1926年4月7日(大正ニュース事典編纂委員会『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.384 毎日コミュニケーションズ 1994年)
  4. ^ 『官報』第5694号、昭和21年1月9日。
  5. ^ 『官報』第5822号、昭和21年6月13日。
  6. ^ 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年。ISBN 9784120043000 p66
  7. ^ 以上につき、『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2013.4第2版、339頁も参照
  8. ^ 関連論文を増補


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