鉄道院基本形客車 鉄道院基本形客車の概要

鉄道院基本形客車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 15:19 UTC 版)

なお、この名称は国鉄が定めた正式の系列呼称ではなく、1910年より製造された6810形(のちの12000形)と同様の寸法・構造で1928年の称号改正において主として10000番台の形式称号を与えられた客車群を総称する、鉄道院部内での呼称である。

6810形(後の12000形) ホハ7100

概要

1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて順次実施された私設鉄道17社の国有化1908年(明治41年)に帝国鉄道庁が設置されたが、設置時点で各社局から承継した客車約4,900両のうち、ボギー車は2軸・3軸ボギー車を合わせても1,000両に満たず、4,000両近い小型の2軸・3軸車を早急に大型のボギー車で代替することが求められた。ところが、鉄道庁設立時点では増備される客車について設計の統一が図られず、国有化前の設計そのままでの車両製造が各社から承継した各工場で続けられていた。

当然ながらこれは標準化による保守部品や取扱の統一という見地では好ましいものではなく、鉄道庁と鉄道局が統合され鉄道院が設置されるにあたり、新規に客車の標準設計を実施することが求められた。

そこで、これに応えるものとして「客車郵便車手荷物車工事仕様書」として客車製造についての統一基準が1910年(明治43年)8月に制定された[1]

この仕様書に従う形で、国有化後初の制式客車として計画・製造されたのが6810形(三等車)を基幹形式とする本系列である。

その基本設計は鉄道作業局時代に直営の新橋工場が製造したボギー客車群[2]に多くを負っているが、ベルト駆動方式の車軸発電機で発電し、床下中央に吊り下げられた蓄電池に蓄電された電力を電源とする電灯を室内灯として標準採用するなど、国有化された私鉄各社や鉄道作業局で試行錯誤が繰り返されていた様々な新技術や構造も取捨選択の上でいくつか盛り込まれており、また、車体寸法についても従来より大型化が図られていた。

以後の国鉄客車の標準規格の多くがここで確定し輸送計画上の基準ともなったことから、これらは基本形客車と呼ばれた。

国鉄客車の基幹系列の一つとして、1940年代後半まで重用されていたが、1949年(昭和24年)より製造が開始された鋼体化改造車60系の種車あるいは台枠の切継用資材として利用されたため、以後は急速にその数を減じ、1950年代後半までにほぼ全車が廃車解体された。ただし、一部の車両は救援車に改造されたほか、島原鉄道など地方民鉄に売却されたものもあったが、これらも1960年代前半に姿を消した。

車体

三菱石炭鉱業大夕張鉄道スハニ6形客車の床下台枠クインポスト部。1913年大宮工場製の3軸ボギー基本形客車オロシ9216を出自とし、後年格下げ改造、払い下げおよび鋼体化改造を受けたが、トラスバーをはじめ、台車・台枠構造の多くに自動連結器化・空気ブレーキ化された後の木造車時代の形態を残す。北海道夕張市に保存

当時の車両限界に従い、最大幅2.7m、車体幅2.6mの木造車体を備える、車体長17mの2軸(4輪)ボギー車、あるいは 20m級の3軸(6輪)ボギー車で、それぞれ基本2AB(2 Axis Bogey:2軸ボギーの略)車と基本3AB(3 Axis Bogey:3軸ボギーの略)車と呼称された。

車体構造は国有化前に鉄道作業局新橋工場が設計・製造していた優等客車のそれを踏襲しているが、20m級の基本3AB車は東海道・山陽本線などの幹線で使用される一部の優等車に限られ、大半は17m級の基本2AB車として製造された。

台枠は1911年(明治44年)度予算で新橋工場と神戸工場で製造された優等車24両と、遅れて翌年に新橋工場で製造された優等車1両の合計25両よりなる19m級3AB車[3]などの例外を除き構造が規格化された新規設計品を採用しており、17m級がUF11、20m級がUF41を呼称する[4]。これらは台車の側受が明治44年式6輪ボギー以降で左右2か所として統一されたこともあり、車体長の相違による全長以外の基本的な設計が各形式用で共通化されている[5]点が大きな特徴である。

いずれの形式についても、展望車・特別車・職用車の展望デッキを除いて車端のデッキ部に客用扉を設けた密閉式デッキとなっており、三面折れ妻構造の妻面には左右にガラス窓が入り、屋根は寝台の都合で室内空間確保の見地から丸屋根とすることが求められた一部の優等寝台車[6]を除き、いわゆる二重屋根(レイルロードルーフあるいはダブルルーフ)で、屋根の上層と下層の間に明かり取り窓を設けてある。

室内灯は前述の通り車軸発電機と蓄電池による電灯が標準採用され、ガス灯や油灯などを用いていた在来型客車の大半とは一線を画する、安定した室内照度の確保が実現した。

主要機器

台車

三菱石炭鉱業大夕張鉄道スハニ6形客車TR70形3軸ボギー台車。山型鋼側枠・短軸・片側1ヶ所側受仕様・両抱き式ブレーキの明治44年式6輪ボギー台車

2軸ボギー台車としては、鉄道作業局時代末期に新橋工場で設計された明治41年式4輪ボギー台車と呼ばれるイコライザー台車[7]を基本としつつ軸距を1フィート延伸して8フィート(2,438mm)とした、溝形鋼を側枠に使用するイコライザー台車である明治42年式4輪ボギー台車[8]と、これを改良した明治44年式4輪ボギー台車[9]、更に側枠を山形鋼あるいは球山形鋼に変更した明治45年式4輪ボギー台車[10]が標準台車として採用された[11]

これに対し、主に優等車用の3軸ボギー台車は、初年度製造分については台車設計が間に合わず、鉄道作業局時代最後の客車用3軸ボギー台車である明治39年式6輪ボギーを装着して竣工しているが、それ以降は、これを基本として軸距を延伸[12]し、それによって得られたスペースを活用してブレーキシューを両抱き式に変更[13]、さらに2組の揺れ枕を梁で結んで側受を第2軸直上の外側に出した明治44年式6輪ボギー台車[14]が採用され、これが細部に改良を施されつつ継続採用されている[15]

また、上述の台枠と同様、1911年度予算で新橋工場と神戸工場にて製造された基本形3AB車の内、25両についてはJ.G.ブリル社製3軸ボギー台車[16]を装着して竣工しており、その多くは第二次世界大戦後までそのまま使用されている。

ブレーキ

当時標準の真空ブレーキと、手ブレーキ[17]が併用されたが、1921年後半以降はウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(WABCO)製P三動弁による自動空気ブレーキとの併用[18]が開始された。国鉄での自動空気ブレーキの整備が完了した1930年代初頭までに真空ブレーキの撤去が順次実施され、全車とも自動空気ブレーキ装備となって安全性が向上している。

連結器

当初はねじ式連結器を使用したが、1925年7月に全車とも自動連結器へ交換された。


  1. ^ この仕様書の制定に当たっては、実際に原案に従って設計された車両の製造が同年春より新橋工場や神戸工場などで実施されており、それらでの現車確認を経て正式仕様が確定している。
  2. ^ 鉄道国有化後はこれらも雑形客車として取り扱われた。なお、「雑形客車」は木造車の場合、車体幅2,590mm以下の車両を指す。
  3. ^ 9010(9010・9011)・9145(9145 - 9149・10050・10051)・9155(9155 - 9157)・9170(9170 - 9172)・9382(9382)・10000(10000 - 10004)・10100(10100 - 10103)の各形式よりなる。九州鉄道によって台車とセットでアメリカから輸入された、九州鉄道ブリル客車と共通設計のJ.G.ブリル社製19m級台枠を流用して製造された。このためこのグループに限り、全長が19,347mmと標準仕様の基本3AB車と比較して636mm短くなっている。
  4. ^ いずれも1929年の称号改正後の形式。なお、後期のグループでは過渡的に次世代の大形客車と同様のUF12・42を使用しているものも存在する。
  5. ^ 鉄道作業局時代の3軸ボギー客車は台車の側受が第1・2軸間と第2・3軸間の各揺れ枕ごとに2か所ずつ計4か所に設置されており、この関係で台枠の構造が2軸ボギー台車装着車とは大きく異なっていた。このため初年度である1910年に製造され、作業局時代の明治39年式6輪ボギーをそのまま採用した基本3AB車については、側受が各台車4ヶ所となるため、作業局時代の台枠設計を踏襲している。
  6. ^ ロングシート配置のいわゆるツーリスト式寝台の場合、側窓上部の幕板最下部付近に上段が配されるが、この上段を側板幕板下部に関節を設け、ここを支点として跳ね上げると、二重屋根の場合明かり取り部分がこれに干渉することになる。丸屋根の採用はこの対策であり、国有化前からのツーリスト式寝台車における定石の設計手法であった。ただし、車種や製造時期によってはツーリスト式寝台でも丸屋根とはせず、そのまま二重屋根を採用した車両も存在する。なお、この種の丸屋根寝台車では小窓を幕板部に設置することで上段寝台の明かり取りとしている。
  7. ^ 神戸工場製と新橋工場製の2種が存在した。共に軸距2,143mm(7フィート)で一見同様の形状であったが、関西鉄道の基本大型台車の設計をほぼそのまま流用した前者と、新橋工場が新規に設計した後者では軸箱守周辺の構造が異なっていた。なお、神戸工場製は同工場が製造した最後の台車である。国有化後はいずれも雑形台車として取り扱われた。
  8. ^ 車軸として輸入品のエルハルト9t軸または国産の基本10t軸を使用。一部でエルハルト車輪と称する一体圧延車輪が試験的に併用されたという。
  9. ^ 主な変更点は心皿荷重上限の拡大に伴う車軸の変更とばねの変更で、車軸は制式化された国産の基本10t軸が本格採用された。
  10. ^ この時期の決定版となった台車で、軸箱守などの一部の小改良が行われた以外は基本設計を変更せずに1912年から大形客車への移行が始まる1918年までの7年間にわたって量産された。なお、球山形鋼を用いるグループは大正6年式、つまり後のTR11の原型となっている。
  11. ^ 1929年に制式台車に対してTRで始まる一連の形式番号が付与された際には、短軸を備えるこれらは一括して2軸ボギー台車の初号形式となるTR10と付番されている。なお、各形式の項で後述するように、1910年の最初期製造グループには明治41年式4輪ボギーを装着している車両が存在する。
  12. ^ 1,448mm+1,448mm→1,753mm+1,753mm。
  13. ^ 明治39年式では第1・3軸を外側から押さえつける片押し式を採用していた。
  14. ^ 側枠は球山形鋼を使用した御料車用の一部を除き、山形鋼を終始一貫して使用した。
  15. ^ TR10となった2軸の各台車と同様、こちらも制式3軸ボギー台車の初号形式となるTR70と付番されている。
  16. ^ ただし車軸は作業局制式のウ4号、あるいは鉄道院制式の基本10t短軸、と新橋・神戸の両工場の標準品を使用している。
  17. ^ 車掌台付きの車両のみ設置。
  18. ^ 機関車側の整備が完了するまでは両方のブレーキ装置を併設しておく必要があった。
  19. ^ 当初の形式がホハヤ5030で、定員が職員15人(寝台定員3人)・3等32人となっていたことから、当初進行方向側の区画は3等座席となっていたと考えられる。RML 200, p. 66参照。
  20. ^ RML 200, p. 66。同頁に試験車として使用中の写真あり
  21. ^ RML 200, p. 65 には廃車直前、旧番号が併記されたまま高砂工場に留置されている写真が確認できる。
  22. ^ RP 54, p. 24。RP 55, p. 30に写真あり。
  23. ^ 中央廊下の座席室から側廊下の寝台室への移行部分のために1席減となる。
  24. ^ 時期から戦時改造と考えられ、1948年の公報での通達は事実の追認と見られる。
  25. ^ この改造では、旧喫煙室と両端のデッキを除く全ての諸設備を撤去し、旧喫煙室に車掌弁を設置して車掌室に転用、残りの車内を荷重9tの荷物室として片側面に各1ヶ所ずつ1,829mmと1,220mmの荷物扉が設置されている。
  26. ^ 順番は5150・5151・7436が5150 - 5152となった以外はやや錯綜しており、7453は一旦5169となった後、5181に改番されている。なお、空番の5180は5535形ホロ5555(1912年新橋工場製)が改造の上で充てられている。
  27. ^ 5615形と同じく軸距からの推測。
  28. ^ 厳密には、これら10両については後年の改造時に作成された形式図で車軸種類は明らかとなっているものの、台車そのものについては記載がなく正確な形式名は定かではない。ただし形式図掲載の軸距(2,134mm≒7フィート)から、これは明治41年式台車である可能性が高い。
  29. ^ 残る5618については1920年以前に喪われたと見られる。
  30. ^ ただしオトク9005では展望台は無く、非貫通の妻面に3枚の窓を並べた、密閉型の出入台となっていた。
  31. ^ 隣の便所へ通路を通らずに移動可能なよう、専用の出入り口が仕切り壁に設けられていた。
  32. ^ 本来の使用目的から、西洋式便器のみ設置された。これは9005・9010・9011全てに共通である。
  33. ^ こうした定期的な政府高官の移動に供されるようになった結果、1912年には急行5・6列車用一等寝台車に特別室が常設され、その後も特急「富士」用一等寝台車や特急「燕」用展望車などへの特別室設置が第二次世界大戦中まで継続した。
  34. ^ RP 58 では1939年改造、RML 200 では1942年改造とする。
  35. ^ RP 58および RML 200
  36. ^ a b c d e f RP 399 p.58以下。(1・2レの食堂車、一等寝台車、展望車の図面あり)。『百年史』6 p.315-316。
  37. ^ 特に1927年8月の「シベリア経由欧亜旅客及手荷物連絡運輸規則及同取扱細則」の施行で展望車が1・2列車の東京神戸間と各等急行第7・8列車の京都-下関間にも連結されるようになってからは、予備車としての重要性が増した。
  38. ^ RML 200, p. 18
  39. ^ 客車形式図下巻(大正14年版)での「1910年12月製、20m級3AB車、神戸工場製」という条件での消去法の推定による。関東大震災で鉄道省が焼失した際に記録が喪われたのか、本形式の経歴については詳細は判然としない。
  40. ^ 湯口徹『レイル No.25 私鉄紀行 南の空,小さな列車(上)』、エリエイ出版部 プレスアイゼンバーン、1989年、pp90,91。また、同書p109には特徴的なJ.G.ブリル社製3軸ボギー台車を装着したスハフ100の写真が掲載されている。
  41. ^ 『鉄道旅行案内. 大正5年版』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  42. ^ 小熊米雄「木製寝台車について」『鉄道史料』No.21、38−39頁
  43. ^ 「展望車連結の特別急行列車」『工業之大日本.』9巻7号、1912年7月


「鉄道院基本形客車」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鉄道院基本形客車」の関連用語

鉄道院基本形客車のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鉄道院基本形客車のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鉄道院基本形客車 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS