第三次台湾海峡危機 第三次台湾海峡危機の概要

第三次台湾海峡危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 19:52 UTC 版)

第三次台湾海峡危機

台湾海峡
1995年7月21日から1996年3月23日
(8ヶ月2日間)
場所台湾海峡
結果 停戦
衝突した勢力
アメリカ合衆国
中華民国
中華人民共和国
指揮官
ビル・クリントン
ジョン・シャリカシュヴィリ
李登輝
蒋仲苓
江沢民
李鵬
劉華清
遅浩田
部隊
インディペンデンス
ニミッツ
バンカー・ヒル
パトリオットミサイル
ホークミサイル
F-5戦闘機
F-CK-1航空機
F-104戦闘機
ノックス級フリゲート
オリバー・ハザード・ペリー級ミサイルフリゲート
DF-15ミサイル
J-7航空機
J-8航空機

1995年半ばから後半にかけて発射された最初のミサイルは、中国の外交政策と対決すると予測されていた李登輝政権下の台湾政府に強力なシグナルを送ろうとしたものと見られた。第2波のミサイルは1996年初めに発射され、1996年中華民国総統選挙への準備段階にあった台湾に対する脅迫の意図があると見られた(ただし非公式の事前通告があったことが後に判明している)。

李登輝のコーネル大学訪問

この危機は1995年に台湾の李登輝総統が母校のコーネル大学から「台湾の民主化経験」に関する演説を行なう招待を受けたことにより始まった。台湾を外交上孤立させようとしている中国はこの種の台湾要人のアメリカ訪問に反対した。中国は、李登輝は台湾独立運動の考えを持っているので地域の安定への脅威であると主張した。

その前年の1994年に李登輝の南アメリカ訪問の帰途、乗機がホノルルテクニカルランディングで立ち寄った際に、クリントン政権の連邦政府は入国ビザ(査証)を求める李登輝の要請を拒否していた。李登輝はヒッカム空軍基地に足止めされ、機内に一晩中留まることを余儀無くされた。国務省当局者はこれを「厄介な状況」とし、李登輝は2流指導者の扱いを受けたと抗議した。

李登輝がコーネル大学訪問を決めると、アメリカのウォーレン・クリストファー国務長官は中国の銭其琛外交部長に、李登輝に対するビザ発給は(アメリカと台湾の)非公式な関係と矛盾することになると確約した。しかし1994年の訪問において李登輝が受けた恥辱が多くの台湾支持者の注目を集めていたため、アメリカ議会は李登輝の為に動いた。1995年5月に李登輝がアメリカを訪問出来るよう国務省に求める同一内容の決議英語版下院では396票対0票(棄権38)で、上院では97票対1票(棄権2)で可決された[1]。1995年5月22日に国務省は態度を軟化させ、中国はこの動きは米中関係を損なうとアメリカを非難した。

李登輝は1995年6月9日から10日にコーネル大学同窓会に参加し、これに中国の国営報道機関は「中国を分断する」企図を持つ「反逆者」と烙印を押した[2][3]

中国の軍事的反応

中国政府はアメリカの政策転換に激怒した。1995年中国人民解放軍副総参謀長の熊光楷中将は、「もしアメリカが台湾に介入したら、中国は核ミサイルでロサンゼルスを破壊する。アメリカは台北よりロサンゼルスを心配した方がよい」と、台湾海峡での武力紛争にアメリカが介入した場合、中国はロサンゼルスに対して核攻撃をおこなう可能性があると表明した[4][5]。1995年7月7日に新華社中国人民解放軍が行う弾道ミサイル試験を報じ、この地域の平和と安全を危険に晒すことになろうと指摘した。中国は台湾領内彭佳嶼の北60キロメートルに限った地域で7月21日から26日にかけて試験を行い、同時に福建省内の部隊を動員した。7月下旬から8月上旬にかけて李登輝と李の台湾海峡を巡る政策を非難する多くの論評が新華社と人民日報から発表された。1995年8月15日から25日にかけて再び実弾を伴うミサイル発射が行われた。8月の海軍演習に続いて、11月には広範囲の陸海演習が行われた。


  1. ^ H.Con.Res. 53. J.ベネット・ジョンストンJr.英語版上院議員(民主党LA)は唯一の反対者であった。
  2. ^ Taiwan's President Speaks at Cornell Reunion Weekend”. Cornell University. 2012年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年7月20日閲覧。
  3. ^ Taiwan Strait: 21 July 1995 to 23 March 1996”. GlobalSecurity.org. 2010年7月20日閲覧。
  4. ^ “核武制美—朱成虎不是第一位”. 博訊中国語版. (2007年3月9日). オリジナルの2005年7月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070309104025/http://news.boxun.com/news/gb/china/2005/07/200507170020.shtml 
  5. ^ “中国軍部高官の核攻撃発言で、国際社会に波紋”. 大紀元. (2005年7月18日). オリジナルの2005年12月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20051227212257/https://www.epochtimes.jp/jp/2005/07/html/d47136.html 
  6. ^ BBC Report
  7. ^ a b http://www.cctv.com/lm/655/32/39507.html
  8. ^ http://www.people.com.cn/GB/historic/0320/903.html
  9. ^ http://www.people.com.cn/GB/historic/0318/879.html


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