第一次世界大戦下の日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 08:05 UTC 版)
日本の商船被害
日本の商船も、ドイツのUボートや仮装巡洋艦による攻撃の対象となった。迷彩塗装や自衛用火砲の搭載、連合国側の護送船団への加入などの対策が採られたが、1915年11月の「靖国丸」以降、「常陸丸」や「平野丸」など33隻(合計135,000総トン)の日本商船が戦没した[9]。
ドイツ人捕虜への待遇
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日露戦争時同様[要出典]、戦時下においては陸海軍とも国際法を遵守し、捕らえたドイツ軍捕虜は丁重に扱った[要出典]。青島で捕獲した捕虜約4700名は徳島県の板東俘虜収容所、千葉県の習志野俘虜収容所、広島県の似島検疫所俘虜収容所など各地の収容所に送られたが、特に板東収容所での扱いはきわめて丁寧で[要出典]、ドイツ兵は地元住民との交流も許され、近隣では「ドイツさん」と呼んで親しまれた[要出典]。このときにドイツ料理やビールをはじめ、数多くのドイツ文化が日本に伝えられた[要出典]。
ベートーヴェンの「交響曲第9番」(第九)はこのときドイツ軍捕虜によって演奏され、はじめて日本に伝えられた[要出典]。ドイツに帰還した元捕虜はこのときの扱いに感謝し、「バンドー会」を結成している。また、敷島製パンの創業者盛田善平は、ドイツ軍捕虜にパン製造を教えられてからパン製造事業に参入するきっかけをつくった[要出典]。
545名が移送された似島検疫所では、菓子職人のカール・ユーハイムが日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げたり、広島市の産業奨励館(現在の原爆ドーム)で実演販売も行ったりした他、捕虜のサッカーチームが地元の師範学校チームと試合を通じて技術を教えるということもあった[要出典]。この選手の一人はドイツに帰国後、サッカークラブ「SVヴァンヴァイル」を創設し、後にギド・ブッフバルトを輩出する礎を築いている[要出典]。
西部戦線での日本人の戦闘参加
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日本陸軍は西部戦線への派兵はしていないが、個別の日本人が志願して外国軍(連合国側)に加わり、戦闘に加わった事実はある[要出典]。
滋野清武男爵は、フランス軍の飛行隊に志願して入隊し、敵機を約6機撃墜して「エース」パイロットとなった[要出典]。
カナダ在住の日本人約200人は、カナダ軍に入隊し、西部戦線(フランス北部)においてイギリス軍の指揮下で歩兵として戦い、約50名の日本人戦死者が出た[要出典]。この戦いの経緯については、諸岡幸麿が回想録を書いている(『アラス戦線へ』軍人会館事業部刊、1935年)。
- ^ 我部 1982, p. 74.
- ^ a b 我部 1982, p. 75.
- ^ a b 我部 1982, p. 82.
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ 大正3年(1914年) 第3冊 11 独領太平洋諸島占領一件”. 六五二 十一月二十七日 加藤外務大臣 在本邦英国大使会談. 外務省. 2021年1月5日閲覧。
- ^ 我部 1982, p. 84.
- ^ a b 『世界の歴史14 第一次世界大戦後の世界』江口朴郎編集、中公文庫、昭和50年
- ^ a b 内藤泰朗 (2014年8月3日). “「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年”. 産経新聞 2019年4月27日閲覧。
- ^ 安倍晋三首相、マルタの日本海軍戦没者墓地で献花 産経新聞(2017年5月28日)2017年5月29日閲覧
- ^ 三輪祐児『海の墓標―戦時下に失われた日本の商船』展望社、2007年、68-86頁。ISBN 978-4-88546-170-5。
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