秩父事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 07:45 UTC 版)
困民党軍の組織
決起の当日に椋神社で発表された役割表と軍律
役割表(部分)
役割 | 出身 | 姓名 |
---|---|---|
総理 | 大宮郷 | 田代栄助 |
副総理 | 石間村 | 加藤織平 |
会計長 | 下吉田村 | 井上伝蔵 |
会計長 | 上日野沢村 | 宮川津盛 |
同兼大宮郷小隊長 | 大宮郷 | 柴岡熊吉 |
参謀長 | 北相木村 | 菊池貫平 |
甲大隊長 | 男衾郡西ノ入村 | 新井周三郎 |
同副 | 風布村 | 大野苗吉 |
乙大隊長 | 下吉田村 | 飯塚森蔵 |
同副 | 下吉田村 | 落合寅市 |
他に秩父郡各村小隊長・兵糧方・軍用金集方・弾薬方・銃砲隊長・小荷駄方・伝令使などの役割があった。
軍律
- 第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
- 第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
- 第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
- 第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
- 第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬
(古林安雄 『秩父事件 自由困民党の戦い』 埼玉新聞社 2014年 p.52)
「自由自治元年」
蜂起中に困民党メンバーやその同調者は「自由自治元年」という私年号を用いた。
備考
- なお、『秩父事件史料集成』の編纂に参加した歴史学者の色川大吉は、当時の明治政府側の公文書の分析によって、明治政府が西南戦争に準じた「反乱」として認識していた事実を指摘している[要出典](なお、取調調書には参加者の最終的な目標が「天朝様(天皇)を倒す」ことであるとする自白があったとする記述がある)[要出典]。また、佐藤政憲は「秩父事件は貧しいから起きたのではなく、段々豊かになるときにつぶされたところに秩父農民の怒りがある」と指摘している。[要出典]
- 事実上、11月4日をもって困民党の組織的抵抗は終わったが、5日にも散発的戦闘はあり、小早川坂本間道(東秩父から小早川)では、困民党の残党40名が木砲と石弾を使用した(後述書 p.139)。花火用の木砲(竹輪と縄で固定されたもの)に車輪(荷車)をつけたもので、三沢村にさしかかった警察隊に砲撃したが、弾が視認できるため、警察隊にかわされた上に、2発目で砲身が破裂し、弾が後ろに発射されたため、農民3名が死亡し、3名が捕まっている[3]。当時を報じた「改進新聞」の挿絵には、木砲の大きさを、「丈4尺余り、口径4寸5分余り」と記している(古林安雄 『秩父事件 自由困民党の戦い』 埼玉新聞社 2014年 p.75)。
- 11月3日の戦闘では、憲兵隊のピストル音が聞こえるのみで、スペンセル銃は発射されず、銃弾が出ないと兵士は困惑したが、携行した弾丸が西南戦争の頃に官軍が使用した古い弾丸で腐っていたため、発射される勢いがなく、撤退している[4]。
秩父事件を題材とした作品
- 版画
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- 羽田信弥 作/中沢市朗 文『峠の叫び 秩父事件の風土と群像』(光陽出版社、2002年) ISBN 4876623163
- テレビドラマ
- 演劇
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- 『秩父の野分』(劇団はぐるま座、1961年)
- 『野火』(劇団はぐるま座、1967年)
- オペラ
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- 『秩父晩鐘』(作・台本:小田健也 作曲:池辺晋一郎 全2幕 1988年初演)
- (オペラ彩 、2022年上演)総合プロデューサー:和田タカ子 演出:直井研二 指揮:神田慶一
- 『秩父晩鐘』(作・台本:小田健也 作曲:池辺晋一郎 全2幕 1988年初演)
秩父事件と同じ種類の言葉
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