秩父事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/15 07:45 UTC 版)
概要
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秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(文献により、秩父困民党・秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。
自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所の書類を破棄した。
しかし、当時既に開設されていた電信により、いち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、上野駅から特別列車を仕立てて警察隊・憲兵隊を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された[2]。
一部の急進派は、長野県南佐久郡北相木村出身の自由党員で、代言人の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信濃国に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町の馬流駅付近)で、高崎鎮台兵と警察部隊の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は、各地で次々と捕縛された。この事件で警察官5人が殉職した。
事件後、約1万4千名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には、死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府市で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)。
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