白河天皇
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諡号・追号・異名
洛東白河の地に「国王の氏寺」と称される壮麗な伽藍・法勝寺を建て、さらにその西側に白河北殿を造営し、院御所とした。崩御に際し、遺諡によって自ら白河院の追号を決めたという。また六条帝の異名もある。大正以後、院号は停廃され白河天皇とされる。退位してからは白河上皇とされる。なお、「六条院」の院号は来孫(孫のひ孫)である順仁親王に追諡された。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。
この陵の近所には、別に同陵の有力な比定候補地が存在し、ここは陵墓参考地として宮内庁の管轄地となっている。
また、白河法皇は当初、自身の死後は土葬されることを望み、たびたび周囲の者にその意向を伝えていたが、同様に土葬された藤原師通が、生前に彼と対立していた興福寺の僧兵が報復としてその墓を暴き、遺体を辱めんと計画していたことを知り、自身も後世に同様な仕打ちを受けるのを嫌い、急遽火葬にするように命じたという。そうして天永2年(1111年)に法皇は自らの墓所として鳥羽離宮の泉殿に三重塔を建立するに至った。しかし、法皇の崩御時にはまだ遺骨を納めるための成菩提院が出来ていなかったため、衣笠山の山麓で法皇の遺体は荼毘に付され(火葬塚は京都市北区の金閣小学校の近くに現存する)、香隆寺に一旦埋葬された。そして天承元年(1131年)7月、鳥羽上皇は成菩提院を完成させると白河法皇の遺骨をそこに改葬した。
そのほか皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
関連作品
- テレビドラマ
注釈
- ^ この「双六の賽」には近年になって新たな解釈がなされるようになった。「上達しない白河法皇自身の双六の腕前」、あるいは「取り締まりが捗らない双六賭博の流行」だとするものなどである。
出典
- ^ 豊田寛三・後藤宗俊・飯沼賢司・末廣利人 編集 『大分県の歴史』 山川出版社 2011年 ISBN 978-4-634-32441-1、69p
- ^ 『中右記』 天仁元年十月二十八日条
- ^ 美川圭 『白河法皇 中世をひらいた帝王』 角川ソフィア文庫 ISBN 978-4044092047、88p
- ^ 樋口健太郎「保安元年の政変」と鳥羽天皇の後宮」(初出:『龍谷大学古代史論集』創刊号(2018年)/所収:樋口『中世王権の形成と摂関家』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02948-3)
- ^ 高橋秀樹『中世の家と性』p.82
- ^ 『皇胤系図』による。『本朝皇胤紹運録』では「宮子」とする。
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