江戸開城 脚注

江戸開城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 15:27 UTC 版)

脚注

注釈

※以下、引用文の旧字は新字に改めてある。

  1. ^ 朝敵はその罪状の軽重によって5等級に区分されていた。すなわち第一等は徳川慶喜(前将軍)。第二等は鳥羽・伏見の戦いで敵対した主力である松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)。第三等は在坂して幕府軍に協力し、慶喜の江戸脱走に同行した者として、松平定昭伊予松山藩主)、酒井忠惇老中姫路藩主)、板倉勝静(老中・備中松山藩主)。第四等は藩主が在坂中に家臣が発砲したが速やかに上京・謝罪した本庄宗武宮津藩主)。第五等は藩主が在国中であったが在坂の家臣が発砲し、後に藩主が上京・謝罪した戸田氏共大垣藩主)、松平頼聰高松藩主)である。
  2. ^ フランス・イギリス・ドイツイタリアオランダアメリカの6ヶ国。
  3. ^ 小栗はこの後、領地の上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)に隠棲するが、4月に東征軍によって捕らえられ、処刑された。
  4. ^ 罷免・逼塞を命じられたのは、大河内正質老中大多喜藩主)、竹中重固(若年寄)、塚原昌義(同)、滝川具挙(大目付)、永井尚志(同)など。
  5. ^ 江戸城登城を禁止された松平容保・松平定敬・板倉勝静らは慶喜に切り捨てられる形で事実上の江戸追放の扱いになり、江戸から離れた関東・東北の所領やゆかりの寺社などに落ちていき、結果的に新政府への抵抗の道を選ぶ事になる。一方で、本国が江戸に近い上総国にあった大河内正質や一連の処分の対象外であったものの、江戸開城直前の3月7日に官位剥奪の追加処分を受けた酒井忠惇(老中、姫路藩主)は新政府軍の進軍に対応する間もなく降伏に追い込まれたため、結果的には軽微な処分で宥免されるなど、明暗を分けることになった[3]
  6. ^ 大慈院はほぼ現在の寛永寺の寺域に相当する。当時の寛永寺はより広大だったが、上野戦争で焼失して以来、縮小された。
  7. ^ 原口清「江戸城明渡しの一考察」(『名城商学』21巻2・3号、1971~72年)。慶喜恭順の条件は以下の通り。
    1. 慶喜若真ニ恭順恐入、奉待天譴候心底ナラハ、軍門ニ来リ而可拝事(もし慶喜に真実恭順の意思があり、天皇の処罰を受け入れる気があるなら、大総督府に出頭して大総督に拝謁すること)
    2. 城者迅速明渡シ可申事(江戸城は速やかに明け渡すこと)
    3. 軍艦不残可相渡事(旧幕府の軍艦は一隻残らず新政府に引き渡すこと)
    4. 旗下之者共不残向嶋ヘ移リ、謹可居事(江戸城下の幕臣は残らず向島東京都墨田区)へ移り、謹慎すること)
    5. 兵器・弾薬・砲銃等不残可指出事、外ニ斬首之幕吏百余位可有之事(兵器・弾薬類は残らず差し出すこと、また、100人程度の幕臣が斬首されるべきである)
  8. ^ 『大久保利通文書』二 慶応四年二月(日付不明)意見書
    「一、恭順之廉ヲ以、慶喜処分之儀寛大仁恕之思食ヲ以、死一等ヲ可被減事
     一、軍門へ伏罪之上、備前ヘ御預之事
     一、城明渡之事。但軍艦鉄砲相渡候勿論之事
     右三ヶ条を以早々実行ヲ挙候様、朝命厳然降下、若シ奉ゼズンバ、官軍ヲ以テ可打砕之外、条理有之間敷奉存候事」。
  9. ^ その後近藤は4月3日に投降し、同25日板橋東京都板橋区)で処刑された。
  10. ^ 輪王寺宮が駿府へ赴いたことが記載されているため、2月21日以降に書かれたものと思われる。
  11. ^ この年寄は天璋院附きだったものの引退していた幾島と思われる。『天璋院様御履歴』「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」
  12. ^ これを受けて天璋院は、家中に対し静謐を保つよう御触れを出している。『天璋院様御履歴』「此度天璋院様より女中御使ニ而薩州先手隊長迄御嘆願御願之筋被為在候処、西郷吉之助より右御請申上候趣有之、大総督府伺済迄御討入御見合ニ相成候段、同人より相答候趣ニ而万々一不心得之者等有之候而者、御家之御一事ニも相成、御心痛被遊候御廉も相立不申儀ニ付、右等篤与相心得一統穏ニ人気も鎮り騒立不申、神祖以来之御家ニ御奉公与存、心得違等決而無御座様急度慎可相守段天璋院様御意ニ被為在候、右之通大奥より披仰出候間、向々江不洩様可被相触候」
  13. ^ 西郷は天璋院からの書状を読んで涙を流したという。「一新録探索書」(『肥後藩国事史料』)「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しツヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致」。
  14. ^ 『海舟日記』慶応四年三月十日条「山岡氏東帰、駿府にて西郷氏へ面談。君上の御意を達し、且、総督府の御内書、御所置の箇条書を乞うて帰れり。嗚呼、山岡氏沈勇にして、その識高く、能く君上の英意を演説して残す所なし。尤も以て敬服するに堪えたり。その御書付は、
    一 慶喜儀、謹慎恭順の廉を以て、備前藩へ御預け仰せつけらるべき事
    一 城明け渡し申すべき事
    一 軍艦残らず相渡すべき事
    一 軍器一宇相渡すべき事
    一 城内住居の家臣、向島へ移り、慎み罷り在るべき事
    一 慶喜妄挙を助け候面々、厳重に取調べ、謝罪の道、屹度相立つべき事
    一 玉石共に砕くの御趣意更にこれなきにつき、鎮定の道相立て、若し暴挙致し候者これあり、手に余り候わば、官軍を以て相慎むべき事
    右の条々実効急速相立ち候わば、徳川氏家名の儀は、寛典の御処置仰せつけらるべく候事」。
  15. ^ 『戊辰解難録』山岡鉄太郎書上「鉄太郎、謹みて承りぬ、但慶喜を備前に徙すとの一事は命を奉じ難し、といへるに、吉之助は朝命なりとて肯せず、鉄太郎乃ち、然らば試に先生と地を易へて論ぜん、島津公若し誤りて朝敵の名を蒙らんに、先生は其君を差出して安閑たるべきか、といふに及びて、吉之助黙然たりしが、少時ありて、よし、慶喜殿の事は吉之助きつと引受けて取計らふべしと答へ、乃ち大総督府陣営通行の符を与へて還らしむ」。
  16. ^ 3月12日付松平春嶽宛大久保一翁書簡から、山岡の江戸帰還が12日であると推測する説もある[15]
  17. ^ 実際に会談が行われた場所については異説もあり確証がない。勝の『氷川清話』では西郷は田町の薩摩屋敷に談判に来たとの記述がある。ところが、勝の日記『慶応四戊辰日記』には3月13日に「高輪薩州之藩邸」に出張したとの記述があり、翌14日にも「同所」に出張したとの記述があるためである。当時、高輪には薩摩藩下屋敷があり、田町には薩摩藩蔵屋敷があったが、二地点では2kmも離れている。14日の会談は13日と「同所」と書いてあるが、これは同じ薩摩藩邸という意味に過ぎず、13日は高輪の藩邸で14日は田町の藩邸で行われたものとみられている。なお、西郷隆盛の書による「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地」の記念碑は田町側に建てられている[19][20]
  18. ^ このとき勝は軍艦奉行並、西郷は第一次長州征伐軍参謀であった。
  19. ^ 前述13日説をとる「復古攬要」も、本文中にあるパークスの言葉中に「昨日ソンテイ(sunday)に有之候得共」とあり、実際には3月13日(洋暦4月5日)が日曜日であることから、この対話が14日(月曜日)に行われたことがうかがえる。
  20. ^ 『江城攻撃中止始末』「前に申上げた時の西郷の心持はこうであろうと想像します。西郷も慶喜は恭順であるから全くそう来ようということは、従前から会得して居るのである。然るに兵を鈍らしてはならず、また慶喜の恭順も立てねばならぬ。(中略)明日の戦を止むると云うは勝に対しては易き話である。唯官軍の紛紜を畏るることは容易でない。多分板垣などは如何なる異論を以て来るかも知れぬ。(中略)横浜パークスの一言を清が報じたので、西郷の意中は却て喜んで居るじゃろう」。
  21. ^ ただし、桑名藩は1月28日に桑名城を無血開城して(城と所領は尾張藩の管理下に入る)在国藩士は全員謹慎しており、家老酒井孫八郎からは松平定教(先代藩主の遺児)を新しい藩主に擁して恭順する旨の申入れが行われている。つまり、ここでの桑名はこうした情勢にもかかわらず新政府への謝罪・恭順の意思を示さない定敬(及びその近臣)のことになる。この当時の桑名藩本国の動静については、水谷 (2011)を参照のこと。
  22. ^ 大久保はさらに、この期に及んでなお宥和論をとる越前藩にすら疑心暗鬼を懐いていた。『大久保利通文書』二巻 慶応四年閏四月二日付 木戸孝允宛大久保書翰「越藩抔之内情甚可怪次第も有之、若一回動揺有之節ハ何れニ賊有るも被図不申候」。

出典

  1. ^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、246頁〈征討大号令宣布ノ事〉以下
  2. ^ 『続徳川実紀』「慶喜公御実紀」明治元年正月廿三日条。
  3. ^ 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩 -敗者の維新史-』八木書店、2011年、179-180, 194-195頁。ISBN 9784840620444 
  4. ^ a b 『大久保利通文書』西郷隆盛 大久保利通宛書状(慶応四年二月二日付)「慶喜退隠の嘆願、甚以て不届千万。是非 切腹迄ニハ参り申さず候ては相済まず(中略)静寛院と申ても矢張賊の一味と成りて退隠ぐらいニて相済候事と思し召され候はゝ致方なく候に付、断然追討あらせられ候事と存じ奉り候」
  5. ^ a b 『大久保利通文書』大久保利通 蓑田伝兵衛宛書状(慶応四年二月十六日付)「誠あほらしさ、沙汰之限りに御坐候。反状顕然、朝敵たるを以て親征と迄相決せられ候を、遁隠位を以て謝罪などゝ、益愚弄し奉るの甚舗に御坐候。天地容るべからざる之大罪なれば天地之間を退隠して後初めて兵を解かれて然るべし」。
  6. ^ 『藤岡屋日記』慶応四年三月。
  7. ^ 「静寛院宮御日記」(『続日本史籍協会叢書』第2期1,2巻所収 東京大学出版会)ISBN 978-4-13-097801-9
  8. ^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、301頁〈親子内親王使土御門ふち上京ノ事〉以下、「十六日信篤ハ内親王哀訴ノ事ハ厚ク朝議ヲ尽クサルヘキノ旨ヲふちニ伝フ而シテ正親町三条実愛ハ口演書ヲ橋本実麗ニ授ケテ之ヲ内親王ニ致サシム其文ニ曰ク、此度の事ハ実ニ容易ならさる義ニ御座候へ共条理明白謝罪の道も相立候上ハ徳川家血食の事ハ厚思召も有らせられ候やにも伺候間右の所ハ宮ゑはしめ厚く御含あらせられ候やう存候事」。
  9. ^ 『海舟語録』などによる。
  10. ^ 『戊辰解難録』山岡鉄太郎書上「先日来静寛院宮・天璋院の使者来りて、慶喜殿恭順謹慎の事を歎願すといへども、唯恐懼するのみにて条理分らず、空しく立戻りたり」。
  11. ^ 岩下哲典『江戸無血開城: 本当の功労者は誰か? 』(吉川弘文館)
  12. ^ 水野靖夫『定説の検証「江戸無血開城」の真実 西郷隆盛と幕末の三舟 山岡鉄舟・勝海舟・高橋泥舟』(ブイツーソリューション)
  13. ^ 『海舟日記』慶応四年三月五日条「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」。
  14. ^ 『海舟日記』慶応四年三月二日条「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり、訴え出でし所の家臣南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所せらる。早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某申す旨ありしを以て、此頃、此事 上聴に達し、御旨に叶う。此日、右三人、某へ預け終る」。
  15. ^ 松浦 2010, p. 359-360.
  16. ^ 『海舟日記』慶応四年三月十日「もし今我が歎願するところを聞かず、猶その先策を進まむとせば、城地灰燼、無辜の死数百万、終にその遁れしむるを知らず。彼この暴挙を進むに先んじ、市街を焼きてその進軍を妨げ、一戦焦土を期せずんばあるべからず」。
  17. ^ 『解難録』三十三 一火策「その進軍を見ば、即時四方に諜し、市街を焼き、進退を断ち切り、焦土となさむ。これら魯西亜都下に於て那波列翁を苦しめし策なり」。
  18. ^ 『解難録』三十二 府下鼎沸、乾父使用「予、早くこれを察し、府下の遊手・無頼の徒、財物を奪ひ、火を放ち、灰燼たらむことを恐れ、火消組の頭分幾名、博徒の長幾名、運送手長、非人の長幾名、その名あり、徒中名望ある所謂親方と唱ふる輩三十五、六名を以て密かに結んで、その徒を集めしめ、一令を待つて動くを約し、雑費幾許金を与へ、敢て私に手を下さしめず」。
  19. ^ 松浦 2010, p. 363-364.
  20. ^ 船戸 1994, p. 280-281.
  21. ^ a b 慶応四年三月十二日付西郷通達(『西郷隆盛全集』第2巻)「陳れば大総督より江城へ打ち入りの期限、御布令相成り候に付き、定めて御承知相成り居り候事とは存じ奉り候得共、其の内軽挙の儀共これあり候ては、屹と相済まざる事件これあり、静寛院宮様御儀に付き、田安へ御含みのケ条もこれあり、其の上、勝・大久保等の人々も、是非道を立て申すべきと、一向尽力いたし居り候向きも相聞き申し候に付き、此のたびの御親征に、私闘の様相成り候ては相済まされず、玉石相混じわらざる様、御計らいも御座あるべくと存じ奉り候に付き、来る十五日より内には、必ず御動き下され間敷合掌奉り候。自然御承諾の儀と相考えられ居り候得共、遠方懸け隔て居り候て情実相通わず候故、余計の儀ながら、此の段御意を得奉り候」。
  22. ^ 『海舟日記』慶応四年三月十三日条。『氷川清話』など。
  23. ^ 渡辺清 述「江城攻撃中止始末」(『史談会速記録』第六十八輯)。
  24. ^ 「復古攬要」(『大日本維新史料稿本』)「一.慶喜仏国ヘ応接依頼イタシ候節ハ、仏国ニ於テイカガ取計可申哉。答(パークス).西洋諸国ニ於テ不条理ハ引受不申、決テ御心配ニ不及候。一.慶喜進退相迫、万一洋行之頼候節、貴国ニ於テイカガ取計有之候哉。答.慶喜洋行之頼候ワバ、差免候。是ハ万国公法ニ御座候」。
  25. ^ 前出「江城攻撃中止始末」より。「直ぐ西郷の所へ行きまして、横浜の模様を斯々といいたれば、西郷も成る程悪かったと、パークスの談話を聞て、愕然として居りましたが、暫くしていわく、それは却て幸いであった。此事は自分からいうてやろうが、成程善しという内、西郷の顔付はさまで憂いて居らぬようである」。
  26. ^ 「復古攬要」「戊辰中立顛末 一」(『大日本維新史料稿本』)、「横浜情実」(『改訂肥後藩国事史料』安場保和報告書添付史料)。安場保和(一平)は木梨・渡辺の留守を守る参謀であった。
  27. ^ 「岩倉家蔵書類」(『大日本維新史料稿本』)、
  28. ^ 前掲「江城攻撃中止始末」。
  29. ^ 1868年4月5日付スタンホープ(英国海軍大佐、オーシャン号艦長)パークス宛書状、1868年4月9日付パークス発 スタンレー外相宛書状。
  30. ^ 『遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄7 江戸開城』「江戸開城」(朝日新聞社、2000年)。
  31. ^ 前掲「江城攻撃中止始末」。「退助が真先に西郷の所へ参っていうに、何を以て明日の攻撃を止めた乎(中略)如何にも激烈の論を致しました。(中略)それはこの席にある渡辺が横浜へ参り、斯よう斯ようである、どうも之れに対しては仕方がない。そこで板垣もなる程仕方がない、それなら異存をいうこともない、それでは明日の攻撃は止めましょう(中略)というて、板垣は帰りました」。
  32. ^ 『勝海舟の罠―氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』P149~160
  33. ^ 山岡鉄舟研究会 江戸城無血開城」論考(2)「パークスの圧力」(サトウ・ルート)2016年8月19日 (金)
  34. ^ 『戊辰日記』(中根雪江)慶応四年四月十二日条「此夕容堂君御来話にて、公(春嶽)へ御密語左の如し。去月十日、木戸準一郎、丸山今善に於て、長薩二侯、並びに阿侯(蜂須賀茂韶)、肥の長岡左京(長岡護美)公子と、各藩の有志とを会合して盛宴を張りたる(中略)畢竟、薩論、徳川公を忌憚する事甚だしく、大逆無道に座して罪死に抵らんことを庶幾せり。準一郎、その不当なるを患苦し、救済の一策を施さんと、先ず諸侯有志を会して和親を結び、再会に及んで此一件を議せんとの心算なりしに、何ぞ図らん、西郷去月十九日、俄然として上京して、東都の御処分を謀るに逢う。三条、岩倉、並びに顧問の輩、参朝して其議に及ぶ。此時、吉之助、徳川公大逆といえども、死一等を宥むべき歟の語気ある故、準一郎其機に投じ、大議論を発し、寛典を弁明し、十分の尽力にて、箇条書等も出来せり。徳川公免死の降伏は、準一郎の功、多に居るとぞ」。
  35. ^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、382頁〈東海道先鋒総督橋本実梁朝命ヲ田安慶頼ヘ伝達ノ事〉以下、387頁、「第一条 慶喜自ラ大総督ノ軍門ニ来リ謝罪スヘシ大総督ハ寺門ニ於テ謹慎ヲ命シ御沙汰次第新封地ニ於テ籠居ノ事。東照宮以来累代勤労之辺ヲ被思食徳川家名被立下相続人体ハ故家茂ヨリ静寛院宮ヘ遺言之次第モ有之旁以田安亀之助へ過被仰附哉之事。新封之事出格之御憐愍ヲ以テ於北国西国等七拾万石又ハ五拾万石位可被下賜哉但於土地者追而御沙汰之事
  36. ^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、388頁「第六条 妄挙ヲ助ケ候者御憐愍ヲ以テ寛宥之御沙汰相願候儀決而難被聞届候妄挙ヲ助ケ候者ニモ自ラ軽重之差別有之候ヘ共会桑二藩ノ如キハ巨魁ノ最タル者ニ候得者首級ヲ軍門ニ捧ケ候而謝罪不致候半テハ実効之廉相立ツト難申候(後略)」。
  37. ^ 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、390頁「第六条 罪魁慶喜死一等被宥候上ハ格別之寛典ヲ以テ其他ノ者モ死一等ハ可被宥候間相当之所置致可申出事。但万石以上之儀者書面之通可被仰附会桑ノ如キハ問罪之軍兵被差向降伏ニ於テハ相当之御処置可有之拒戦ニ於テハ速ニ屠滅可有之事」。
  38. ^ 「解難録」(『勝海舟全集』)。
  39. ^ 1868年5月2日付パークス発スタンレー外相宛書簡。
  40. ^ 『続徳川実紀』「慶喜公御実紀」明治元年四月十一日条。
  41. ^ なお、この戦いで益満休之助が戦死したという。
  42. ^ a b 『岩倉公実記』中巻 (1906年)、443頁〈田安亀之助ニ徳川家名相続仰附ラル事〉以下
  43. ^ 勝海舟『幕府始末』慶応四年「閏四月二十七日、明日、田安亀之助、入城すべき旨の命あり。二十八日、亀之助、徳川家相続被仰付、後、駿河、遠江、三河に於て、七拾万石を賜ひ、新規一候家たり」。
  44. ^ 『海舟別記』巻一「明治初年、徳川家臣団始末」。
  45. ^ 『大久保利通文書』二巻 慶応四年四月二十九日付 大久保利通宛木戸書翰「大分会賊も横行仕候由、先々是ニ而寂寥を相助け申候。今日天下之有様を想察仕候に、一乱暴仕候もの無御座而ハ、却而朝廷今日之御為ニ相成不申候」。
  46. ^ 岡本, 雅享「言語不通の列島から単一言語発言への軌跡」『福岡県立大学人間社会学部紀要 = Journal of the Faculty of Integrated Human Studies and Social Sciences, Fukuoka Prefectural University』第17巻第2号、2009年1月8日、11–31頁。 







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