横浜医科大学 (旧制)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/01 22:52 UTC 版)
概要
- 第二次世界大戦中に設置された旧制横浜市立医学専門学校が前身。
- 戦後、戦時期に設立された他の公立旧制医学専門学校11校と同時期に旧制大学に昇格し、横浜医科大学となった。
- 新制大学への移行に際して横浜市立大学に合流し、医学部となった (現 医学部医学科)。
- 同窓会は 「倶進会」 と称し、新制医学部出身者と合同の会である (1972年以降は、横浜市大・Y校同窓会 「社団法人 進交会」 に合流し、学科単位同窓会となっている)。
沿革
前史
- 1871年4月20日: 早矢仕有的らにより横浜元弁天に「仮病院」を設立。
- 1871年9月: 仮病院、火事で類焼し廃止。
- 1872年7月: 神奈川県令大江卓・早矢仕らにより、太田町六丁目(現中区北仲通り6)に「横濱市病院」として開設[1]。
- 1873年12月: 野毛山の修文館跡[1](現在の横浜市立老松中学校敷地内)に移転、「横浜共立病院」となる(1872年12月説も)。
- 1874年2月: 神奈川県立十全医院と改称。
- 1876年12月: 神奈川県に「医学校設立伺い書」を提出。
- 1877年7月、医学教育は東京大学に一任することとなり、医学校は設立されず。
- 1889年4月: 広瀬佐太郎が院長に就任、ドイツ式医学に改められる。
- 1891年4月: 横浜市に移管、横浜市十全医院と改称。
- 1923年9月1日: 関東大震災で倒壊・全焼[1]。6日、仮病院を開設。
- 1924年6月: 南吉田町(現南区浦舟町4)に応急病院を開設。
- 1926年11月: 南吉田町に十全医院再建。
- 1940年: 「横浜市立十全高等医学専門学校設立の趣旨」を文部省に提出(予科1年、本科4年案)。
- 1941年: 医専設立は認められず、「横浜市立医科大学」設立案を提出。
- 同年12月の日米開戦により、一転して医大案は不許可となり、医専として設立を目指すこととなった。
横浜市立医学専門学校時代
1943年11月決定の戦時教育非常措置により、市立横浜商専の存廃が問題となったが、時局に合う市立医学専門学校を設立し、代わりに商専を縮小・存続することになった。
- 1944年2月1日: 横浜市立医学専門学校 (旧制) 設立許可。
- 修業年限4年。横浜市十全医院を横浜市立医学専門学校付属十全病院と改称。
- 1944年4月25日: 第1回入学式。5月1日、授業開始。
- 1946年: A級医専と判定され存続決定。修業年限 5年に延長。
横浜医科大学時代
- 1947年6月: 大学令により横浜医科大学 (旧制) 設置認可、予科を開設。
- 修業年限3年。2学年が同時に入学 (第1学年のみ一般入試、第2学年は医専から希望者を編入)。
- 1949年3月25日: 学部開設認可。
- 1949年4月: 学部を開設 (修業年限4年)。
- 医専付属十全病院を横浜医科大学病院と改称。
- 1951年3月: 横浜市立医学専門学校、横浜医科大学予科を廃止。
- 1952年4月: 新制横浜市立大学医学部開設 (4年制)、旧制横浜医大は学生募集停止。
- 入学資格は、4年制大学に 2年以上在籍し医学教育基準に定める単位を取得した者。
- 1954年9月: 旧制学位審査権を取得。
- 1955年3月: 医大最後の卒業式。
- 1955年4月: 新制横浜市立大学に医学進学課程を設置。
- 1961年3月: 旧制横浜医科大学廃止。
歴代校長
- 横浜市立医学専門学校
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- 初代校長: 及能謙一 (1944年2月 - 1946年9月) * 十全医院院長 (1934年3月-)
- 第2代校長: 高木逸磨 (1946年9月 - 1951年3月)
- 横浜医科大学
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- 初代学長: 高木逸磨 (1947年6月 - 1960年12月5日死去)
- 第2代学長: 勝又正 (1960年12月 - 1961年3月)
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