東大寺の仏像
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木造良弁上人坐像
国宝。平安時代。像高92.4センチ。 大仏殿東方にある開山堂の八角厨子内に安置される像。平素は非公開で、毎年12月16日の良弁忌にのみ開扉される。東大寺初代別当・良弁(ろうべん)の像である。良弁は東大寺の前身である金鐘山房(後の金鐘寺)に住して、新羅僧・審祥から華厳教学を学び、大仏開眼後、東大寺の初代別当に就任した。像はヒノキ材(カヤ材とも)の一木造で、両肩の外側、腰部などに別材を矧ぎ、両前膊、両手先も別材とする。内刳は行わない。像表面の白土(はくど)地の彩色は当初のものが残っている。像は法衣の上に袈裟をまとい、右手に如意(仏具の一種)を持つ姿に表す。この如意は古様であり、厨子内に置かれている杖とともに、良弁遺愛の品と伝えている。袈裟は条葉部(縁取り)に朱、田相部(「条葉」に囲まれた区画)は白群の地に白緑と墨で文様を描く。良弁の忌日法要は、同人の死去から2世紀以上経った寛仁3年(1019年)11月16日に始まったもので、本像はこの時に造立されたものと推定されている。衣文線や唇、人中線などのしのぎ立った刻み方、両脚部の厚み、眼球の盛り上がりなどの表現方法には、平安時代初期、9世紀頃の彫刻様式が顕著に現れている[76][74][77]。
木造僧形八幡神坐像
国宝。鎌倉時代。像高87.1センチ。 鎌倉時代の仏師・快慶の作。写実表現の的確さと仕上げの入念さから、快慶の代表作の一つに数えられている。もとは東大寺鎮守の八幡宮(現・手向山八幡宮)の神体として祀られていた像で、明治初年の神仏分離の際に東大寺に移された。現在は大仏殿の西方にある勧進所八幡殿に安置されている。平素は非公開で、毎年10月5日のみ公開される。僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)とは、本地垂迹説に基づき、八幡神(応神天皇、誉田別尊)を仏教の僧侶の姿に表したものである。八幡神は、東大寺の大仏建立の際にも神託を下し助成したとされる、東大寺とはゆかりの深い神である。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では、東大寺や興福寺の伽藍とともに東大寺鎮守の八幡宮も焼失した。治承の兵火後の東大寺の復興を主導した俊乗房重源は、鎮守八幡宮の再建にあたり、当時、鳥羽の勝光明院宝蔵にあった八幡神画像を請い受けて八幡宮の神体にしようと考えていた。その八幡神画像は、京都高雄の神護寺から鳥羽天皇に献上されたものであったが、神護寺の僧・文覚による返還運動の結果、同画像は神護寺に返還されることになった。重源はやむをえず、件の画像の代わりに彫像の僧形八幡神像を快慶に造らせることとしたものである。勝光明院にあった八幡神画像の原本は現存しないが、神護寺には鎌倉時代に制作された同画像の写しがある。この写しを東大寺の僧形八幡神像と比較すると、額のしわの数などの細部に至るまで一致しており、快慶が画像を忠実に写した彫像の制作を意図していたことが明らかである。本像は法衣の上に袈裟を着けて坐す僧形像で、右手に錫杖、左手に数珠(亡失)を持ち、蓮華座上に坐す。保存状態がよく、像表面には当初の彩色が残り、台座、光背、持物の錫杖も当初のものが残る。頭体の主要部は正中線で左右二材矧ぎとし、これに両体側部、膝前、両腰脇、両手先などに別材を矧ぎ足す。本像は快慶作品には珍しく玉眼を用いず、瞳の部分に黒漆状のものを塗って眼光を表現する。本像における玉眼の不使用は、割首(木造の仏像制作時に、面相部の仕上げなどのために、頸部にノミを入れて割り放すこと)をしていないこととともに、神像としての聖性、神威を表したものと解釈されている。肉身部は肉色に塗り、法衣は黄褐色の上に衣文の縁の部分に金泥彩を施す。袖口や襟元からわずかにのぞく下衣には白群を塗る。袈裟はその図柄から「遠山袈裟」と呼ばれるもので、条葉部(縁取り)は群青で塗った上に金泥の線で縁取り、田相部(「条葉」で囲まれた四角い区画)は黄褐色の地に緑青、群青、代赭などの繧繝彩色(うんげんさいしき)で遠山文様を表す。台座は請花のみの一重座で、蓮弁を朱と緑青の繧繝彩色とする。円形の光背は木製、漆箔仕上げとし、縁部は銅製鍍金である。像内は麻布を貼った上に、聖性を表す赤色顔料(丹)を塗った入念な仕上げとし、その上に長文の銘文が記されている。銘文には「建仁元年十二月廿七日御開眼」の年記とともに、施主として「巧匠アン阿弥陀仏快慶」(「アン」は梵字)の名があり、続いて小仏師28人、漆工3人、銅細工1人の名がある。続けて、願主として今上天皇(土御門天皇)、七条女院(藤原殖子)、太上天皇(後鳥羽院)、八条女院(暲子内親王)、東大寺別当弁曉、守覚法親王(仁和寺、後白河天皇息子)、明恵、明遍等の名がある。この銘文中には東大寺復興大勧進(総責任者)の重源の名が見えず、仏師である快慶が施主でもあるように書かれていること、小仏師28人の中に「運慶」の名があることなどの謎があり、本像がなんらかの特殊な事情のもとに造像されたことを示唆している[78][79][80][81]。
銅造誕生釈迦仏立像及び灌仏盤
国宝。奈良時代。像高47.5センチ。灌仏盤径88.7 - 89.2センチ。東大寺ミュージアム所在。 誕生釈迦仏とは、釈迦が生まれてすぐ7歩歩んで、両手でそれぞれ天と地を指し、「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説を造形化したもの[82]。日本の仏教寺院では、釈迦の誕生日とされる4月8日に灌頂会(かんじょうえ、別名は降誕会、花祭りなど)という行事が行われ、その際に誕生釈迦仏に五種の香水(こうずい)を注ぐ風習がある。本像は銅製鍍金で、同じく銅製の灌仏盤(誕生仏に注いだ香水を受けるもの)と一具で国宝に指定されている。誕生釈迦仏の像は通常、像高10センチ前後の小像が多いが、本像の像高は47.5センチである。本像の面相は大仏殿前に立つ金銅八角燈籠(奈良時代)に浮彫りされた菩薩像のそれと似ており、本像も大仏や八角燈籠と同じ頃、すなわち8世紀半ば頃の作とみられる。誕生釈迦仏としては大作であることから、本像は天平勝宝4年(752年)の大仏開眼会に際して制作されたものとする説と、聖武天皇の一周忌以降の制作とする説がある[83]。天を指す右腕は前膊の半ばに継ぎ目があり、そこから先は後補である。像は像高の割に重量が大きく、像内には鋳造時の中型(なかご)の土が詰まったままになっていると推定される。腕や体部には肉のくびれを明確に表し、幼児の体形を表現している。像の足下の木製台座は後補のものだが、像とともに伝わる銅製灌仏盤は一具の奈良時代のものである。盤の立ち上がり部分には、魚々子地(ななこじ)に簡略なタッチで種々の図柄を彫り表している。表されている図柄には、山岳、雲、草花、樹木、鳥、蝶、獣(獅子、麒麟など)、童子、飛仙などがある[84][85]。
注釈
- ^ 「国立国会図書館デジタルコレクション」の本資料の画像を見ると、後付けの表紙カバーには「帝国博物館」とあるが、奥付には「帝室博物館」とある。
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