東大寺の仏像 その他諸堂の仏像

東大寺の仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 17:34 UTC 版)

その他諸堂の仏像

南大門

石造獅子(西方像)
石造獅子
重要文化財。時代。像高東獅子180.5センチ、西獅子160.0センチ。
南大門の裏側(北面)の左右に安置される石造の獅子像である。本来は大仏殿前の中門に安置されていたものである。東獅子の台座内から応永37年(1430年)の年紀のある笹塔婆が見つかっており、中門から南大門へ移されたのはその頃とみられる。『東大寺造立供養記』という記録に、これらの獅子は「宋人字六郎等四人」が建久7年(1196年)に大陸の石材を用いて造立したものであるとの記載があり、宋人の石工によって作られたとみられる。この「六郎」については、東大寺法華堂前の石燈籠などの作者として名を残す、伊行末(いぎょうまつ、いのゆきすえ)と同人とする説がある。東獅子、西獅子ともに高い石造台座の上に乗り、台座の腰部と基台部の側面には浮彫装飾がある。東獅子の台座腰部は前後面に牡丹唐草と葡萄唐草、左右面に玉取獅子を表し、西獅子の台座腰部は前後面に牡丹文と蓮華文、左右面に迦陵頻伽(かりょうびんが)と鹿を表す。東西獅子像ともに、台座基台部には雲文を浮彫りする。寺門の左右にこの種の像を安置する際、阿形(開口)と吽形(閉口)の一対とするのが通例だが、本像は東獅子、西獅子のいずれも阿形とする点、両像の像高が約20センチも異なり、作風にも相違があることなどから、本来の一具ではないとみられる。東獅子の方が巻毛などの彫りが細かく、出来が優れていると評される。『奈良六大寺大観 東大寺三』は、北中門と南中門にそれぞれ安置されていた二対の獅子のうちの1体ずつが残ったものかと推論している[86]

大仏殿

木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像
重要文化財。江戸時代。像高如意輪観音722.5センチ、虚空蔵菩薩710.0センチ。
大仏の脇侍(きょうじ)は、左脇侍(向かって右)が如意輪観音、右脇侍(向かって左)が虚空蔵菩薩と呼ばれている。如意輪観音は施無畏与願印(せむい・よがんいん、右手は掌を正面に向けて上げ、左手は掌を上に向けて膝上に置く)をむすんで坐し、虚空蔵菩薩は対称的に右手を膝上に置き、左手を上げる。大仏の脇侍像は永禄10年(1567年)の兵火の後、長らく再興されなかった。江戸時代の中期になって、京都の仏師山本順慶一門、大坂の仏師椿井賢慶一門らによって再興造像が開始された。享保11年(1726年)に脇侍像の御衣木加持が順慶・賢慶によって行われ、享保15年(1730年)に如意輪観音像が造立されるが、光背と台座が完成したのは享保20年(1735年)のことであった。虚空蔵菩薩像は宝暦2年(1752年)、了慶、尹慶らによって造立されたものである。両像は本体と台座を貫通する心柱の周囲に桶状ないし箱状に材を寄せて造られている。仏教美術衰退期の江戸時代において、巨像を破綻なくまとめた佳作と評されている[73]
聖武天皇が発した「盧舎那仏造立の詔」には大仏の脇侍についての言及はない。『東大寺要録』等の古記録にも脇侍像についての詳しい言及はなく、当初の脇侍像の造立事情や形態の詳細は不明である[87]。平安時代末期の絵巻『信貴山縁起』には、創建大仏殿が描かれており、扉の隙間からわずかに左脇侍の姿が見えるが、ここに描かれた左脇侍は左脚を踏み下げて坐していることがわかる。このことから、当初の大仏脇侍像は現状のような結跏趺坐像ではなく、腰かけて片脚を曲げ、片脚を下に下ろした踏み下げ坐像であったと推定される[88]。儀軌に説く如意輪観音は六臂であり、大仏左脇侍のような二臂の如意輪観音は経典に説かれず、日本独自のものである[89]。大仏左脇侍像が「如意輪観音」と称されるようになるのは平安時代以降のことで、当初は単に「観音」と称されていたことが指摘されている[90]。盧舎那仏の脇侍として観音と虚空蔵を配することも経典に見えず、典拠が明らかでない[91]

俊乗堂

俊乗堂は平素は非公開で、毎年7月5日と12月16日のみ公開される。(本尊の木造俊乗上人坐像(国宝)については既述。)

木造阿弥陀如来立像
重要文化財。鎌倉時代。像高98.7センチ。
鎌倉時代に東大寺大仏の再興に尽力した俊乗房重源の臨終仏(臨終時に往生者の枕元に安置した仏像)と伝える、三尺の阿弥陀像で、鎌倉時代の仏師・快慶の作品である。俊乗堂内、向かって右の脇壇に安置される。快慶の初期の作品に比べて、量感を抑えた肉取りになっており、円熟期の快慶の絵画的、装飾的な作風の完成を見せる作品である。『東大寺諸集』所収の「新造屋阿弥陀安置由来」という記録に本像の由来が書かれている。それによれば、本像は重源が私財を投じて結縁し、仏師快慶に作らせたもので、建仁2年(1202年)から同3年(1202年から1203年)にかけて造立され、施主は東大寺僧の寛顕、供養導師は解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)であった。本像は前出の寛顕が建保4年(1216年)示寂した際の臨終仏としても用いられた。寛顕の遺言により、本像は高野山の道場に安置されるはずであったが、道場が火災に遭ったため、仁治4年(1243年)に東大寺の中門堂に安置されたという。以上の由来は、仁治4年(1243年)、大法師瞻寛(せんかん)が注進(報告)したものである。『東大寺諸集』はこれに続けて、本像が享禄2年(1529年)に鎮守八幡宮の新造屋に移されたと記す。なお、像の足枘銘(くわしくは後述)により、像表面の截金装飾が施されたのは重源の没後の承元2年(1208年)であったことがわかる(重源が没したのは建永元年・1206年)。本像には「釘打ちの弥陀」の異称もある。伝説によれば、浄土真宗の開祖親鸞が南都遊学の際、この像が親鸞の後について行こうとするので、それを止めるために、像の左足に釘を打ったという。像は割矧造で、ヒノキの一材を体側で前後に割り放し、首も割首として、玉眼を入れる。左右の袖・手先・足先などは別材を矧ぎ、肉髻珠(にっけいしゅ)と白毫(びゃくごう)には水晶を嵌入する。X線撮影により、像内には五輪塔などの納入品が存在することが確認されている。像表面は金泥塗の上に截金で亀甲繋ぎ、麻の葉繋ぎなどの文様を表し、頭髪に群青、唇に朱を差す。光背と台座は後補のものである。右足枘には梵字の「アン」の刻銘があり(「アン」は快慶の別名「安阿弥陀仏」の最初の文字)、左足枘には針書で「広岡ニテ承元二年九月一日細金印始」とある(「細金印始」は「截金を置き始める」意)とある。これらの刻銘と針書は、足枘の表面を一度削った上に記されているが、当初の銘記の内容を写したものとみなされている[92][93][94]
木造愛染明王坐像
重要文化財。平安時代。像高98.4センチ。
俊乗堂内、向かって左の脇壇に安置される像。ヒノキ材の寄木造で、頭体の主要部を左右の二材から彫出し、膝前、背中などに別材を矧ぐ。各所に補修が多い。全体に細身で肉付けが薄い穏やかな作風から、平安時代後期、12世紀の作品とみられる。もとは山城相楽郡和束の鷲峰山寺(じゅぶせんじ、現・金胎寺)にあったものだが、転々と所在を変えた後、明暦年間(1655 - 1657年)に東大寺金珠院の実清法印に寄進された。俊乗堂に移されたのは明治以後である[95]

念仏堂

木造地蔵菩薩坐像
重要文化財。鎌倉時代。像高221.2センチ。通年拝観可能。
大仏殿の東方にある念仏堂の本尊として安置される像。足をくずして安座し、錫杖と宝珠を持つ通形の地蔵像である(ただし持物は後補)。寄木造、彩色、彫眼とする。彩色は大部分が後補のものだが、右肩、右の袖脇、左膝頭など、一部に当初の彩色が残る。像内には「嘉禎第三天」「大仏司法橋康清」の銘と、元禄11年(1698年)の修理銘がある。嘉禎3年(1237年)の銘は字体に崩れがあり、追銘とみられるが、内容は信頼できるものとされている。厚手の着衣表現、硬化した衣文などに作者康清の特色がみられる[96]

二月堂食堂

木造訶梨帝母坐像
重要文化財。平安時代。像高42.2センチ。一般には非公開。
二月堂の登り廊の下に位置する食堂(じきどう)に安置される天女形の護法善神像。経説によれば、訶梨帝母(かりていも、サンスクリット名ハーリティー)は夜叉神の娘で、もとは人間の子供を捕えて喰う悪鬼であったが、釈迦の説法によって改心し、仏法の守護神、子供や安産の守護神となったとされる。日本では「鬼子母神」の名称で広く信仰を集めている。本像は胸に1人の幼児を抱く姿で表される。訶梨帝母像は3人ないし5人、7人、9人など複数の幼児とともに表されることが多く、本像の場合ももとは3人の幼児を伴っていたうちの2人が失われたものと思われる。大袖の衣の上に領巾(ひれ)、肩蔽(かたおおい)を着け、下半身には裳(も)をまとい、左脚を踏み下げて坐す。ヒノキ材の寄木造で、頭体の主要部は左右二材矧ぎ。両脚部には横一材を矧ぎ、膝奥や左足先にも別材を矧ぐ。右手先は欠失するが、他の訶梨帝母像と同様に、元は柘榴果(豊穣多産の象徴)を持っていたものと思われる。白土下地に彩色仕上げとし、肉身の白、着衣の白緑、黄土、朱の彩色は当初のものが残る。衣文は浅く穏やかに刻み、目鼻立ちは小ぶりに表すなど、平安時代末、12世紀頃の作風を示す[95]

三昧堂

木造十一面観音立像
重要文化財。平安時代。像高175.2センチ。通年拝観可能。
二月堂の近くにある三昧堂(さんまいどう、別名四月堂)の本尊として安置される像である。三昧堂の本尊はもとは千手観音像であったが、2013年、堂の改修時に千手観音像は東大寺ミュージアムに移され、代わってこの十一面観音像が三昧堂の本尊となった[97]。この十一面観音像は、奈良市狭川町にあった廃寺・桃尾寺から明治初年に東大寺に移された像である。東大寺に移されてからは二月堂に安置され、後に収蔵庫に移され、2013年に前述のとおり三昧堂に移された。像の構造は一木割矧造で、頭体の主要部をヒノキの一材から彫成し、割り矧いで内刳を行う。右腕は肩と手首で、左腕は肩、臂、手首でそれぞれ矧ぐ。着衣には截金で唐草、卍字繋ぎ、麻の葉繋ぎなどの文様を表す。肉身部の漆箔は後補のもので、光背、台座も後補である[98]
木造阿弥陀如来坐像
重要文化財。平安時代。像高85.0センチ。
三昧堂内陣の向かって右側に安置される像。定印(じょういん、腹前で両手を組む)をむすぶ阿弥陀像である。構造は一木割矧造で、頭体の主要部をヒノキ材の一木から彫成し、前後に割り放して内刳を行い、頭部は割首とする。面相部も仮面状に割り放して玉眼を入れる。ただしこの玉眼は後補であり、右目には彫り直しの跡がある。なで肩の体形で、肉付けの抑揚を控え、上体の奥行も乏しい。衣文も平行線主体の穏やかなものである。像表面の漆箔は後補で、裳先、後頭部の蓋板、光背も後補とする。台座は九重の蓮華座で、当初のものである[99]

中性院

木造弥勒菩薩立像
重要文化財。鎌倉時代。像高102.7センチ。一般には非公開。
本像は、二月堂近くにある東大寺の塔頭・中性院(ちゅうしょういん)の本尊である。もとは東大寺戒壇院の千手堂にあった。像内に『弥勒上生経』(みろくじょうしょうきょう)が納入されていたことから、本像は弥勒菩薩として造立されたものと思われる(重要文化財指定名称は単に「木造菩薩立像」で、「弥勒菩薩」とは特定していない)。上記『弥勒上生経』に建久の年紀が確認され、像自体も建久年間(1190 - 1199年)の作と見られる。像は腰を軽く左にひねり、右脚をゆるめて立つ。右腕は体側に垂下し、左腕は屈臂して蓮茎を持つ。寄木造で、像表面は漆箔仕上げとする。構造は、頭体を通じた主要部を前後二材矧ぎとし、内刳を行い、頭部は割首とする。面部は仮面状に割り放して玉眼を嵌入する。このほか、頭頂部に蓋状の別材を矧ぎ、髻、両腕、両脚(膝から下の部分)も別材製である。木彫の立像では、根幹材からはみ出る足先の部分にのみ別材を矧ぐ例は多いが、本像の場合は別材製の両脚部を像底から挿し込むという、珍しい技法が用いられている。条帛や天衣を複雑に波打つように表すのが本像の特色で、こうした作風は中国の宋代仏画からの影響と考えられている。本像の作者について、かつては快慶作の可能性が論じられていたが、近年は南都仏師の一派である善派の作品と考えられている。本像と同様の作風を示す像としては、京都・峰定寺の釈迦如来立像などが挙げられる[100]

知足院

木造地蔵菩薩立像
重要文化財。鎌倉時代。像高97.2センチ。厨子高さ183.5センチ。
本像は、大仏殿北方に位置する東大寺の塔頭・知足院の本尊である。平素は非公開で、毎年7月24日のみ公開される。本像は解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)が春日社に参籠した際に伝授された像であると伝える。建長3年(1251年)に良遍(知足院を再興した僧)により知足院本尊に迎えられた。作風の面からも伝承と同じく13世紀半ばの作とみられる。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、通常の地蔵像である。ヒノキ材の割矧造で、頭体の主要部は一材から彫成し、前後に割り矧いで内刳を行い、頭部は割首として玉眼を嵌入する。体側は別材を矧ぐ。像表面は錆下地に彩色仕上げとし、截金で麻の葉繋ぎ、卍字繋ぎ、蓮華唐草、籠目などの文様を表す。台座と持物は当初のものである。胸元を見ると、大衣の下にもう1枚衣を着ているのがわかるが、このような服制は珍しいもので、他の例としては奈良・霊山寺(地蔵院)の地蔵菩薩立像がある。目の吊り上がった厳しい表情は地蔵像としては異例であり、前述の貞慶に関わる伝承を勘案すると、本像は春日社の三宮の本地仏の地蔵として造立された可能性もある[101]
像を納める厨子は宝形造、黒漆塗で、正面と左右側面に扉を設ける。扉の内面には極彩色と金泥で仏画を描く。画題は、正面扉が毘沙門天及び眷属像と不動明王二童子像、向かって右側面の扉が地獄道と餓鬼道、左側面の扉が畜生道と阿修羅道である。厨子背面板には後補の阿弥陀来迎図を描く。左右扉に六道のうちの4つが描かれることから、背面板にはもとは六道の残りの2つ(人道と天道)が描かれていたとみられる。絵は作風から南都絵所の絵師の筆になるものと思われ、地蔵像よりは時代の下る南北朝時代の作である[101]

勧進所

大仏殿西方にある勧進所は、江戸時代に僧公慶が大仏復興勧進の事務所を置いたところである。勧進所の敷地内には八幡殿、阿弥陀堂、公慶堂などがあるが、平素は非公開。毎年10月5日のみ公開される(公慶堂は4月12日も公開)。(八幡殿の僧形八幡神像(国宝)については既述。)

木造五劫思惟阿弥陀坐像
重要文化財。平安時代。像高106.0センチ。
勧進所阿弥陀堂に安置される像。五劫思惟阿弥陀(ごこうしゆいあみだ)は阿弥陀如来像の変化形で、図像的には螺髪が大きく盛り上がって、頭髪がぼさぼさに伸びた状態を表しているのが特色である。この種の像は、阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩という名の菩薩であったとき、衆生を救済するための48の誓願(四十八願)を立てるために「五劫」という長い時間、ひたすら思惟したという経説に基づくものであり、伸びた頭髪は思惟に費やした長大な時間の経過を象徴している。「劫」とは、40里四方の大磐石を100年に一度、白氈(びゃくせん、毛織物)で撫でて、その大磐石が磨り減ってなくなってもまだ終わらない、無限に近い時間である。本像はヒノキ材の一木造で、衣を通肩に(両肩を覆って)着用し、合掌する姿に表す。面相は角張って扁平であり、小さな目鼻立ちを顔の中央部に寄せて表す点に特色がある。厚手で重苦しい衣文表現にも特色があり、こうした特異な作風から、重源(鎌倉時代の東大寺復興に尽くした僧)が宋から将来した像との伝えもあるが、日本特産のヒノキ材を用いることから、日本製である可能性が高い。一木造の仏像であっても、坐像の場合の両脚部は別材を矧ぎ付ける例が多いが、本像は両脚部も含めて一木から彫成しており、脚部の奥行が少なくこぢんまりと作られているのはそのためと思われる。五劫思惟阿弥陀像の作例には、本像のように合掌するもののほかに、定印(じょういん、腹前で両手を組む)を結ぶもの、定印を結んだ両手を袖の中に隠したものなどがある。東大寺の末寺の五劫院(奈良市)の五劫思惟阿弥陀像は、袖の中で定印を組む例である[98][102]
木造公慶上人坐像
重要文化財。江戸時代。像高69.7センチ。
勧進所公慶堂に安置される像。像主である龍松院公慶は、江戸時代に大仏と大仏殿の復興に尽力した僧である。鎌倉時代に復興された大仏と大仏殿は、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火でふたたび焼けた。その後、大仏と大仏殿は仮復旧されたものの、仮の大仏殿は大風で倒れ、なかなか再建されなかった。公慶は、長らく露座(雨ざらし)のままであった大仏を見て復興を志し、貞享元年(1684年)、37歳のときに復興勧進に着手。銅板を張って仮復旧の状態であった大仏の頭部を新たに鋳造し、台座蓮弁を補鋳するなどして、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養を行った。大仏殿は宝永2年(1705年)に上棟にこぎつけたが、公慶は大仏殿の竣工を見ずに同年7月、江戸で客死した。58歳であった。本像は公慶の弟子である公盛が、仏師性慶と僧即念(公慶の弟子)に作らせたものである。像は朱衣の上に茶地の袈裟をまとい、胸前で両手を組む。顔はうつむき、眼は充血し、両頬はこけていて、大仏殿復興に後半生を捧げた僧の辛苦を思わせる[103][104]

戒壇院

戒壇堂は通年拝観可能。千手堂は特別公開時を除き非公開。

銅造釈迦如来・多宝如来坐像
重要文化財。奈良時代。像高釈迦25.0センチ、多宝24.2センチ。
戒壇院の中心堂宇である戒壇堂の堂内中央に立つ多宝塔の中に安置されていた、一対の如来像である(多宝塔内には模造が安置され、原品は東大寺ミュージアムにて保管)。釈迦如来と多宝如来を一対で造像するのは、『法華経』「見宝塔品」の説話に基づく。同経によれば、釈迦が説法をしていたとき、地中から巨大な宝塔が出現し、塔中にいた多宝如来(遠い過去世に悟りを開いた如来の一)がその説法を称賛した。そして、多宝如来は自分の座の半分を空けて釈迦をそこに座らせたという。この説話に基づく造形遺品は中国には多いが、日本では少ない。日本での作例としては長谷寺の『銅板法華説相図』がある。現存する東大寺の戒壇堂と堂内の多宝塔はともに享保18年(1733年)の再興であるが、釈迦如来・多宝如来像は戒壇院が創立された天平勝宝5年(753年)頃の制作とみられる。両像とも銅造で、像全体を一鋳とし、釈迦如来は衣を偏袒右肩(右肩をあらわにする)に着け、上げた右手の第3指を曲げる。多宝如来は通肩(両肩を覆う)に衣を着け、拱手する。釈迦像の印相は鑑真の授戒本尊の印相と同様であることが指摘されている。像表面の金泥による装飾文様は、現・戒壇堂が再建された享保18年(1733年)に施されたもの[105]
厨子入木造千手観音・四天王立像
重要文化財。鎌倉時代。像高千手観音74.2センチ。像高持国天43.1センチ、増長天44.4センチ、広目天44.2センチ、多聞天44.5センチ。
戒壇院千手堂の宝形厨子内には、千手観音像と四天王像の計5躯が安置されている。千手堂は1998年の火災で全焼しており、現存する堂はその後再建されたものである。火災時に堂内に安置されていた仏像は搬出され、一部損傷はあったが、焼失はまぬがれた。千手観音像は十一面四十臂像で、ヒノキ材の寄木造、金泥塗で玉眼を用いる。着衣には截金で麻の葉繋ぎ、卍字繋ぎ、蓮華唐草などの文様を表す。体部は前後2材矧ぎで、これに別に作った頭部(同じく前後2材矧ぎ)を差し込む(差首)。四天王像はヒノキ材の寄木造だが玉眼は用いない。4体とも極彩色で、精緻で技巧的な作風を示す。千手観音像と同様に頭・体を別に作って差首とするが、頭部は4体とも一材製、体部は広目天が一材製、持国天・多聞天は前後2材矧ぎ、増長天は一材を前後割矧ぎとする。各像は14世紀頃の善派(南都仏師の流派)の作とみられる。類似の作風を示す像として、文和4年(1355年)作の奈良・霊山寺四天王像(三重塔安置)が挙げられる。厨子は宝形屋根、黒漆塗りの春日厨子で、正面と両側面に両開きの扉を設ける。扉の内面は正面に二十八部衆、向かって右側面に倶利伽羅竜剣と不動明王及び二童子、左側面に四明王像(五大明王のうち不動明王を除いたもの)、背面に補陀落浄土図を描く。これらの厨子絵は南都絵所の絵師の作で、像と同時期の作とみられる。厨子の扉6面(正面、左、右各2面)と背板1面は1998年の火災で焼損したため、取り外して別途保管されており、厨子には復元模写絵が描かれた新しい扉と背板が取り付けられている[106][107]
木造鑑真和上坐像
重要文化財。江戸時代。像高78.2センチ。
戒壇院千手堂に安置される像。奈良時代に戒律を伝えるため日本へ渡航した唐僧・鑑真の肖像である。戒壇院は江戸霊雲寺の恵光の勧進により享保8年(1733年)に再興されたが、本像も同じ享保8年(1733年)の制作であることが、台座裏の墨書銘からわかる。また、『東大寺年中行事記』寛保3年(1743年)条によると、同年(享保8年から10年後にあたる)に像の彩色を行ったこと、像の作者は戒壇院光達であることがわかる。鑑真が創立した奈良・唐招提寺には、本人の没後まもなく制作されたと思われる鑑真の肖像彫刻があるが、この唐招提寺像を忠実に模して制作されたのが戒壇院の鑑真像である。オリジナルの唐招提寺像に比べると本像は表現が固くなってはいるが、仏像彫刻の衰退期である江戸時代の作品としては優れた技巧をみせる像である[108]
木造愛染明王坐像
重要文化財。鎌倉時代。像高93.9センチ。
戒壇院千手堂に安置される像。ヒノキ材の寄木造で、玉眼を嵌入する。頭部、体部をそれぞれ前後の2材から彫成し、6本の腕や両脚部は別材とする。像表面は素地仕上げ。宝冠、瓔珞、胸飾は後補のものである。台座は敷茄子(しきなす、蓮華座の部分の名称)と蓮弁を後補するほか、当初のものである。伝来は不明だが、技法作風から鎌倉時代後期の作とみられる[109]

真言院

木造地蔵菩薩立像
重要文化財。鎌倉時代。像高97.2センチ。非公開。
本像は、南大門北西方にある東大寺の塔頭・真言院の地蔵堂の本尊。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、通形の地蔵像である。ヒノキ材の寄木造で、頭体主要部を前後の2材から作り、内刳を行う。頭部は割首とし、玉眼を嵌入する。両手先、両足先は別製のものを差込み、両肩から袖に至る部分に別材を矧ぐ。像表面は錆下地に白土を塗った上に彩色とする。光背と台座は後補。作風から鎌倉時代中期の作とみられる。1954年の修理時に頭部と台座の内部から多数の納入品が発見された。頭部内には両界種子曼荼羅、般若心経、宝篋印陀羅尼経などが納められていた。台座内の納入品は、像が嘉永6年(1853年)に修理された際に納入されたものとみられる[110]
木造四天王立像
重要文化財。鎌倉時代。像高持国天86.2センチ、増長天88.8センチ、広目天88.9センチ、多聞天89.5センチ。非公開。
東大寺塔頭・新禅院(現在は寺籍のみ残り、堂宇はない)に伝来した四天王像である。現在は東大寺塔頭・真言院の地蔵堂に安置される。各像の像内にはそれぞれ白檀製五輪塔と経巻(金光明経四天王品)が納入されていた。同経巻の奥書によれば、この四天王像は、弘安3年から4年にかけて(1280 - 1281年)、新禅院聖守(しょうしゅ)が蒙古撃退のために発願し制作されたものである。奥書に仏師の名は記されていないが、聖守が東大寺大仏師に任命した慶守の作とする説が有力である。慶守は「慶秀」とも書き、運慶の孫の仏師康円の子で、慶派正系の仏師である。各像はヒノキ材(広目天のみサクラ材)の寄木造で、各像とも頭体を通して前後の2材矧ぎとし、彩色、玉眼とする[111][112]

注釈

  1. ^ 「国立国会図書館デジタルコレクション」の本資料の画像を見ると、後付けの表紙カバーには「帝国博物館」とあるが、奥付には「帝室博物館」とある。

出典

  1. ^ a b (鷲塚、2002)、p.28
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