本尊 (日蓮正宗) 本門戒壇の大御本尊

本尊 (日蓮正宗)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/31 02:48 UTC 版)

本門戒壇の大御本尊

大石寺奉安堂所蔵の縦約143センチ、横約65センチの楠木製とされる板曼荼羅である[1]。写真は明治期に熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたが、その後日蓮正宗は写真撮影を禁止する方針をとった(熊田本の写真はこちらを参照)[2]

日蓮正宗では、本門戒壇の大御本尊は、1279年弘安2年)10月12日に日蓮が出世の本懐として作成した本尊といい、日蓮作成の曼荼羅の中でも究境の大曼荼羅と位置づけ[3][4]、広宣流布の暁には日本国民一同が帰依すべき本尊と定めている[5]

熱原の法難を契機に日蓮の指示によって、当時はまだ所化僧であった泉公、後の日法が彫刻して作成したと大石寺側は主張しているが、泉公にを塗る技術や金箔貼りの技術があったのかは不明であり、その事については説明はない[6][7]

対して日蓮宗法華宗、また北山本門寺や京都要法寺等の他の日興門流、富士門流はこの立場を取っておらず、本門戒壇の大本尊は日蓮死後の後世に偽作された偽曼荼羅であると主張し、近年の研究では大石寺9世の日有(室町時代の法主)が他山に対抗して制作したものであると結論付けており、現在まで論争の火種となっている。

また大石寺59世だった堀日亨ですらも晩年は日蓮作では無いと近辺の者に(大橋慈譲など)暴露しており、法主隠居後は大石寺から一人離れて伊豆の畑毛(現・静岡県田方郡函南町)の地に雪山荘という隠居所を建てて移り住み、戒壇本尊には一切給仕をしていない。

日亨の研究により「戒壇本尊は日禅授与本尊を基に作成された偽物である」という話を、昭和30年代当時東京池袋法道院の主管であった早瀬日慈(68世日如の父)が聞いており、後の67世である阿部日顕(当時教学部長)にそのことを密かに伝え「大橋慈譲著の亨師談聴聞記」と「戒壇本尊の写真及び日禅授与本尊の写真」を基に研究し、両者はそれらの結論から戒壇本尊は偽物であるとの認識を持ったことから、宗務院に辞表を提出して有馬温泉に身を隠していた時期もあった。

更に阿部日顕は河辺メモにもあるように、日蓮正宗僧侶である河辺慈篤(当時徳島敬台寺住職)と東京・日比谷帝国ホテルで面会した際「戒壇本尊は偽物である。日禅授与の本尊を板に彫ったものだ」と二つの本尊の写真を示しながら話しており、河辺自身もその重大さに日蓮正宗との対決を決め込んで敬台寺に立て籠もるという事件にまで発展してしまった。しかし後の68世日如や宗務院側からの再三の説得に丸め込まれてしまい、「あれは自分の記録ミスだった」と自信の非を詫びる形で幕引きをしている[1][8]

創価学会日蓮正宗傘下の時代はこの本門戒壇の大御本尊を信仰の対象としており、例えば1955年の日蓮宗との法論「小樽問答」の際の記録にも見て取れる[8]。しかし、1990年代に日蓮正宗との対立の末に日蓮正宗から破門されると、それまで信仰していた戒壇本尊を信仰の対象から徐々に外していった。1999年(平成11年)には河辺のメモ(河辺メモ)が流出し、そこにはメモ流出当時の日蓮正宗法主だった日顕が「戒旦の御本尊のは偽物」と発言していたとする記述があったことから、創価学会側はこの記述を利用して日蓮正宗への批判を強め、そして2014年の会則改正によって正式に「戒壇本尊を受持の対象としない」ことを決定した[9]。また、日蓮正宗に所属していた正信会も「戒壇本尊は弘安二年に存在していなかった」「日蓮作ではない後世の作り物」とする結論を発表し、未だ戒壇本尊を支持する旧来の派閥と、戒壇本尊を支持しないという新しい派閥とに分かれて内部分裂に至っている。一方、冨士大石寺顕正会は日蓮正宗から排斥された2022年現在も戒壇本尊の信仰を続け、日蓮の出世の本懐論を踏襲、さらに本門戒壇が日本国政府ないしは皇室によって建立されなければならないとする狭義の国立戒壇論を主張している。それに加えて戒壇本尊を受持の対象にしないとした創価学会の決定こそが大謗法と非難する。

戒壇本尊が後世に作られたであろう理由としてはいくつかある。

他の弘安2年の曼荼羅と筆配や題目主題の大きさが全く異なる点や、日蓮や直弟子である六老僧に戒壇本尊の記録が全く無いこと、当時彫刻した日法はまだ所化僧であり、その日法すら戒壇本尊について全く触れていないこと、六老僧が日蓮滅後や日蓮が身延下山中に戒壇本尊に対して給仕していないこと、日興や三祖日目等が書写した本尊が戒壇本尊をモデルにしていないこと、大石寺四世日道書の宗祖御伝土代にすら戒壇本尊について全く書かれていないこと、弘安二年十月時点で身延山に板本尊を安置する本堂が完成していないこと、当時の弟子の中に板本尊の漆を塗る技術者がいないこと、板本尊の文字に使われている金箔の調達が不可能であること、身延山周辺に板本尊の原料となっている楠が生えていないこと、「身延の池に板の原木が浮き上がった」「日興と共同で板本尊を作った」等の逸話が存在していたが都合が悪いのか最初からそんな逸話が無かったことにしようとしていること、大事な板本尊なのに池上邸へ下っている間は誰も板本尊を守護していないこと、日興が身延離山の時に大石寺へ運んだというが日興は原殿御返事で身延から何も持ち出していないと手紙に残していること、朝廷へ提出した申し状にすら板本尊について何一つ触れていないことなどが上げられている。

また大石寺9世日有が戒壇本尊を作成した事に関して北山本門寺の日浄が「日有は未聞未見の板本尊を作った」と批判しており、日有はその批判を受けて晩年は大石寺を去り甲斐国(現・山梨県南巨摩郡身延町)の杉山に身を隠している。

20世紀末以後の研究により、日蓮→日興→日目に相伝されていた本尊は戒壇本尊ではなく、嘗て大石寺に存在していた萬年救護の本尊であることが判明している。

日目から血脈を受けたのは日道ではなく日郷であったので、当然日郷が萬年救護本尊を日目から受け継ぎ、南条家との争いに敗れた後は大石寺から萬年救護本尊を持ち出して小泉久遠寺、さらに保田妙本寺へ移動している。日蓮作の本尊が無くなった大石寺としては、日郷が持ち去った萬年救護本尊に対抗してどうしても日蓮作の本尊が必要になり、日郷門流との争いに一段落が着いた頃が丁度日有の時代でもあった。

大石寺2~6世の天皇への申し状の書状に戒壇本尊について一言も触れていないのは、当時は存在していないからである。9世法主日有が戒壇本尊を作成した後は何故か天皇への諫暁も辞めてしまっている。それは大石寺としてのある程度の教義や寺院整備、内部の規律、他山との比較や大石寺の立ち位置を築き上げることに成功したので、日有としては天皇の威光を借りずとも満足いく結果を残せたのであろう。まさにこの頃から今の大石寺の基礎というものができたので、中興の祖とも呼ばれる所以はここからきているのである。17世法主日精も「日興が身に賜わった、弘安二年に譲られし萬年救護の大本尊は現在保田(保田妙本寺:現・千葉県安房郡鋸南町)に有り」と述べているが、それに31世法主日因が二本線を引いて訂正を加え、「日興が身に賜わった弘安二年の戒壇本尊当山に有り」と書き換えている。

このように近年の研究では戒壇本尊が偽作された背景や当時の状況等が徐々に分かってきているのであるが、日蓮正宗側はこのような事実を頑なに受け止めず、「不相伝の輩には分からぬものだ」「戒壇本尊を誹謗することは堕地獄の原因だ」「批判している輩は戒壇本尊が存在しては困る連中だから批判しているのだ」とかえって批判を中傷して断じて聞く耳を持たないのが実情である。

大石寺ではこの戒壇本尊を拝めば必ず幸福になると宣伝をしているが、実際は不幸になれば、過去の罪障が出ている、魔障が競っている、唱題がたりていない、もっと折伏をしろ、供養がたりないからだ、と都合良く指導をしており、それらは大石寺から産まれた他教団組織でも同じように使われている。


また元日蓮正宗信者であった方々が各々のブログ等で、本門戒壇の大御本尊は偽物であると述べているが、その具体的な内容を以下のように述べている。


・弘安2年造立説の戒壇本尊は、日蓮や日興の遺文に全く言及がない。

・日興の『三時弘経次第』や『原殿御返事』にも戒壇本尊への言及がない。つまり身延を離山するに際して日興は戒壇本尊について全く言及していない。


・大石寺4世日道の『三師御伝土代』の弘安2年の項に戒壇本尊の言及は存在しない。


・大石寺3祖日目の『申状』他、日目の遺文にも戒壇本尊の言及はない。


・日興書写本尊に戒壇本尊と同じ相貌をしたものは一体も存在しない。


・戒壇本尊の相貌は『御本尊七箇相承』における書写の指示と異なる。


・『御本尊七箇相承』には「能く能く似せ奉るべし」と書写の指示がされているにもかかわらず、戒壇本尊はこの相承の指示通りに書かれていない。


・戒壇本尊と全く同じ相貌で本尊を書写した大石寺の法主は一人も存在しない。


・「奉書写之」の文言は、日興や日目、日道、日行等、大石寺の上代の本尊には見られない。


・『日興跡条条事』原本は日興筆跡と異なることが指摘され、文書には改竄の跡が残る。


・『日興跡条条事』に記された弘安2年本尊について、大石寺18世日精はこれを戒壇本尊ではなく、保田妙本寺蔵の万年救護本尊と解釈している。


・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」は文字通り難を受けてきて27年目の意味であり、戒壇本尊が書かれたとする根拠にはなり得ない。


・『聖人御難事』の「余は二十七年なり」を「弘安2年に出世の本懐を遂げた根拠」と曲解したのは大石寺56世大石日応であり、日応以前に『聖人御難事』を出世の本懐が弘安2年とする依文とした人物は存在しない。


・『聖人御難事』執筆の日付は弘安2年10月1日であり、戒壇本尊造立説の日付より前の日付である。


・『伯耆殿御返事』によれば、弘安2年10月12日に日興は日蓮のところにはいなかった。また同抄は弘安2年10月12日の日付で日興に送付されたものなのに、戒壇本尊のことが全く言及されていない。


・犀角独歩氏の解析によれば、戒壇本尊の首題の文字は弘安3年日禅授与本尊と形が一致する。


・北山本門寺6世日浄の『日浄記』によれば、大石寺9世日有が「未聞未見の板本尊」を彫刻偽作したことが記録されている。


・大石寺9世日有の『新池抄聞書』で、歴史上初めて日有によって大石寺に本尊堂があること、大石寺の本尊堂が「事の戒壇」であることが示される。


・戒壇本尊という呼称は大石寺14世日主まで大石寺では全く用いられない。日主の代になり、初めて「本門戒壇御本尊」という言葉が用いられる。


・大石寺66世細井日達の発言によれば戒壇本尊は半丸太形の木だが、重さが推定数百キロであり、身延の険しい山中から日興が数百キロの重量の戒壇本尊を降ろして大石寺に運ぶことは不可能である。


・細井日達の発言によれば戒壇本尊は身延の本堂に安置されていたとするが、本堂にあるなら誰もが見ていた筈なのに、六老僧他当時の弟子たちの文献に戒壇本尊は全く出てこない。


・戒壇本尊が他山の文献に出てくるのは保田妙本寺日我など、室町時代以降のことである。


・大石寺4世日道の『三師御伝土代』の「日興」伝の最後の「図し給う御本尊」の讃文は「仏滅後二千二百三十余年」と書かれており、戒壇本尊の「仏滅後二千二百二十余年」と相違している。


・大石寺ではなぜか10月12日に記念の行事は行われない。したがって大石寺は「10月12日」を公式に記念日と定めてはいない。

・大石寺48世日量によれば日法は戒壇本尊彫刻の功績から阿闍梨号を賜ったとされるが、日興の弘安5年の『宗祖御遷化次第』で日法は「和泉公」と記され、阿闍梨号で書かれていないこと。


・日法彫刻の最初仏について、大石寺48世日量は「(日蓮が)我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり」としているが、日興の『富士一跡門徒存知事』では日蓮御影について「一つも似ているものがないが、正和2年日順の像だけは日蓮の面影がある」と述べており、矛盾する。


・戒壇本尊は半丸太形で台座に嵌めて置く形状をしているにもかかわらず、『日興跡条条事』では弘安2年の本尊について「相伝之可奉懸本門寺」と書かれており、「懸け奉るべき」としていること。


・日蓮は重要な遺文や本尊には必ず「干支」を記したが、戒壇本尊に「干支」は全く書かれていない。


・重須(北山本門寺)学頭の三位日順は『本門心底抄』で「本門の戒壇」を語る部分で「仏像を安置することは本尊の図の如し」として戒壇本尊について全く言及していないこと。


・下条妙蓮寺5世日眼の『五人所破抄見聞』では本尊の讃文に「二千二百三十余年」と書かれているものが「肝心」であるとしており、「二千二百二十余年」と書かれている戒壇本尊に全く触れていない。

・現在の大石寺には客殿から戒壇本尊に対する「遥拝勤行」の化儀が残されているが、そもそも客殿の創建は寛正6年(1465年)であり、それ以前に客殿は存在しなかったこと。


・日興は重要な本尊に対して「本門寺重宝」「本門寺に懸け奉るべし」と脇書を多く残しているにもかかわらず、戒壇本尊には全く書かれていない。




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