木曽岬干拓地 木曽岬干拓地の概要

木曽岬干拓地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/29 07:01 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

地理

干拓地は南北に細長い形で、北側は鍋田川、西側は木曽川の河口部、南側は伊勢湾の最北部に面している。東側は鍋田干拓地名古屋港の埋め立て地に接し、陸続きになっている。大部分は三重県桑名郡木曽岬町に所属しているが、西側の一部が桑名市に、東端部が愛知県弥富市に所属している。

伊勢湾岸自動車道弥富木曽岬ICの施設が干拓地内に設けられているが、出入口は無い。

年表

  • 1860年頃 - 老松輪中、稲賀新田壊滅。
  • 1933年昭和8年) - 木曽岬村(当時)が現在の木曽岬干拓地の場所に村単独で総面積320haの干拓地を造成する旨の免許願を県に提出(実現には至らず)。
  • 1950年(昭和25年) - 三重県、木曽岬村の要請により国営鍋田干拓事業の一環として同地に木曽岬工区204haの干拓が計画される。
  • 1959年(昭和34年) - 伊勢湾台風で鍋田干拓地に壊滅的な被害。これにより、木曽岬工区の着工は見送り。
  • 1963年(昭和38年) - 三重県より国に調査申請。
  • 1966年(昭和41年)3月 - 国の直轄事業として干拓事業着手。
  • 1968年(昭和43年) - 三重県と愛知県の間で県境問題が起こる。
  • 1970年(昭和45年)3月 - 干拓工事着工。
  • 1973年(昭和48年)10月 - 干拓地が干陸。
  • 1989年平成元年) - 干拓がほぼ終了。
  • 1994年(平成6年)6月 - 県境問題が合意する。
  • 1996年(平成8年)5月 - 木曽岬町と長島町(現・桑名市)の町境問題が合意する。
  • 1996年(平成8年)9月 - 木曽岬干拓地を各町に編入。
  • 1997年(平成9年)3月 - 三重県と地元5漁協との間で優先配分権返上の補償が合意。
  • 2000年(平成12年)7月 - 公共事業見直しの一環として事業の中止が決まったため、三重県と愛知県が農水省に売り払いを申請。
  • 2001年(平成13年)3月 - 三重県と愛知県が145億円で国から用地を買い受ける。
  • 2006年(平成18年)2月 - 干拓地の北部にて運動広場整備事業に着手(2015年4月一部供用開始[1])。
  • 2012年(平成24年)11月9日 - 干拓地の北部、伊勢湾岸道の南に位置する約78haにメガソーラーを建設することを三重県が発表。事業主に丸紅を選定。2013年5月に建設に着手し、2014年10月に中部電力に売電開始。地方公共団体が公募した施設としては国内最大級の出力(48.7MW)で、これは約15,000世帯の年間電力使用量に相当する[2]。こちらは2015年2月に供用開始。

境界問題

三重県と愛知県

干拓地事業は1966年に都市近郊の農業地帯としての立地条件を活かして、農業の近代化や経営安定化を図る目的で事業が始まった。当初、国(農林水産省)は地理的な位置関係から、木曽岬の沖合いを干拓するということで干拓地全域を三重県に組み入れるつもりであったが、干拓地は三重県側とは川に隔てられて接しておらず、愛知県側の土地を延長するような形であったほか、愛知県側の土地が含まれている事が分かり、愛知県との間で県境問題に発展した。三重県側の主張は「干拓事業は三重県の要請により着手されたものだから、干拓地は全域三重県になる」というもの。それに対し、愛知県側の主張は終始一貫していたわけではなく、「60ha以上」、「常識線として115ha」、「全面領有」、「両県の地籍から等距離線(愛知県分が49%)」などの主張がなされた[3]。なお、木曽岬干拓地内には愛知県弥富町の地籍が約16ha、三重県木曽岬町の地籍は約34ha、さらに同じ三重県の長島町(現在は桑名市の一部)の地籍が約77ha存在するとされた[4]。県境問題は1989年に干拓工事がほぼ終了した後も続き、実質的に陸地化されていながら法律上は公用水面のままという状態が長く続いたが、1990年、農水省が会計監査院から改善の指摘を受け、1994年、両県が農水省の調停案を受け入れる形でようやく合意に至った[5]。面積は三重県が362.5ha(総事業面積の81.75%)、愛知県は80.9ha(同18.25%)。愛知県の領域は元からの県境である鍋田川から県境を延長して、鍋田干拓地との境界および名古屋港高潮防波堤に沿って細く弧を描くように設定され、伊勢湾に面する南端部のみは両県で半分に分ける形になっている。

三重県木曽岬町と長島町

県境問題の解決により、愛知県側は全て弥富町(現・弥富市)に編入されることになったが、この時点では三重県側は木曽岬町と長島町(現・桑名市)との町境は確定していなかった。木曽岬町側が木曽川の中央を町境とし、三重県側の全てを木曽岬町の領有とするよう主張したのに対し、長島町側は登記簿に記載されている地籍の割合を元に3分の2を長島町側とすべきとした。木曽岬干拓地の対岸である長島町側として登記された土地が存在した理由としては、木曽岬干拓地の一部が過去にも干拓されたことがあり、1860年頃に水害などで放棄されるまでは長島町側から現在の木曽岬干拓地の一部へ老松輪中という輪中が延びていた事が挙げられる(現在、旧長島町本土は木曽川の西岸、木曽岬干拓地は東岸となっているが、明治木曽三川分流工事以前の木曽川の流路は現在と異っていた)[4]

県境の確定から2年後の1996年に県の裁定を受け入れる形で合意が得られ、干拓地の境界問題はようやく解決した。木曽岬町は干拓地の大部分を占める324.5ha。長島町は、地籍の面積に相当する分のみとされ、さらに旧老松輪中が長島町の主張よりも西にあったと判断されたことから、38.5haと長島町の主張する地籍の半分の面積となった[4]。町境は住民の利便性や土地利用の効率性などから一区画を四角く切り取るような形になっている。


  1. ^ 【三重】県政策部、木曽岬干拓地で土地利用検討『建通新聞』2011年4月26日
  2. ^ 丸紅、メガソーラー受注 三重・愛知県境 三重県、160億円投資(日本経済新聞2012年11月9日 11:52)
  3. ^ 三重 回顧94年 取材ノートから お互い辛抱度100%『中日新聞』1994年12月29日 朝刊 15面
  4. ^ a b c d 『木曽岬町史(木曽岬村史改訂版)』木曽岬町役場、1998年3月31日発行
  5. ^ a b c 明日への伝言:昭和のあの日から 三重と愛知・県境問題長引いた宝の島、木曽岬干拓地『毎日新聞』2010年3月2日 中部朝刊 23面
  6. ^ 5漁協に142億円補償、木曽岬干拓地の優先配分問題『朝日新聞』1997年3月26日 夕刊 9面
  7. ^ 中部新空港建設候補地一本化問題で三重県知事「常滑沖」を正式表明『中日新聞』1989年3月16日 朝刊 3面
  8. ^ ポートアイランド、運輸相、藤前代替否定的『日経新聞』1999年1月5日 夕刊 17面
  9. ^ 木曽岬干拓地、三重・愛知県購入へ 国の提示額受け入れ『朝日新聞』2001年1月25日 夕刊 10面 
  10. ^ 木曽岬干拓地、建設残土でかさ上げ 高度利用めざし--三重県方針『毎日新聞』2004年10月7日 中部朝刊 1面 
  11. ^ 木曽岬干拓地、仮説道工事始まる『朝日新聞』2006年9月2日 朝刊 30面 
  12. ^ 利用されず40年、堤防だけは老朽 三重・愛知県境の木曽岬干拓地『朝日新聞』2006年5月28日 朝刊 26面 
  13. ^ 木曽岬町干拓地計画の変更を了承”. NHK津放送局 (2020年12月23日). 2020年12月30日閲覧。


「木曽岬干拓地」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「木曽岬干拓地」の関連用語

木曽岬干拓地のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



木曽岬干拓地のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの木曽岬干拓地 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS