思想の科学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/27 16:05 UTC 版)
ひとびとの哲学
この「お守り言葉」から解放するためには、「人々が毎日使い慣れた言葉で語ることが大切なのではないか」、そう考えた鶴見は、創刊号から間もなくして、「ひとびとの哲学」と題し、「普通の人々」の哲学を問う連載を始める。
共同研究「転向」
次に鶴見らが取り組んだのは、戦前に自由や平和を唱えていた知識人たちは一体なぜ戦争に反対しなかったのか、という問題だった。10数名の学生たちと8年がかりで調べ、その成果をまとめたのが『共同研究「転向」』である。「転向」とは一般に共産主義者らが権力の弾圧を受け、その思想を放棄すること、とされていた。しかし鶴見は転向を「悪」としてみるのではなく、「権力によって強制されたために起こる思想の変化[9]。」と定義した。共同研究では、共産主義者だけでなく、様々な思想を抱くおよそ50人の人物を取り上げ、なぜ「転向」したのかを調べた。鶴見は共同研究「転向」の意義を「転向の事実を明らかに認め、その道筋をも明らかに認めるとき、転向体験はわれわれにとっての生きた遺産となる[9]。」
様々な投稿の募集と生活綴方運動の推進
1950年代になると、「投稿歓迎」「枚数無制限」を売りに、様々な「普通の人」による論文の投稿を募集した。また、「生活綴方運動」を活発に推進。「日本の地下水」と題して、全国にそれに関するサークル誌を紹介した。
『声なき声の会』から『ベ平連』へ
またこの頃岸信介内閣による新しい「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(日米安全保障条約)をめぐり、全国各地で様々な反対運動(安保闘争)が繰り広げられる中、これに関連した声明を出すべきか、思想の科学研究会の中で議論した結果、賛否両論だったが、5月19日の強行採決に対しては反対声明を出すことで意見が一致している。また、研究会会員の中では「声なき声の会」のデモに参加した者もいて、プラカードを持って歩いていると、一人、また一人と集まり、最終的には300人にまでのぼった、という経緯を書いた投稿もあった。ちなみに「声なき声の会」はその後のベトナム戦争に反対する「ベトナムに平和を!市民連合(通称:ベ平連)」に変わり、反戦運動を繰り広げることになる。ここでも研究会が関与し、投稿もしている。
刊行の歴史
- 第一次思想の科学(先駆社版) - 1946年5月 - 1951年4月
- 第二次思想の科学(建民社版) - 1953年1月 - 1954年5月 雑誌名が『芽』にかわる
- 第三次思想の科学(講談社版) - 1954年 5月 - 1955年4月 雑誌名が『思想の科学』に戻る
- 第四次思想の科学(中央公論社版) - 1959年1月 - 1961年12月
- 第五次思想の科学(思想の科学社版) - 1962年3月 - 1972年3月
- 第六次思想の科学(同上) - 1972年4月 - 1981年3月
- 第七次思想の科学(同上) - 1981年4月 - 1993年2月
- 第八次思想の科学(同上) - 1993年3月 - 1996年5月
- ^ NHK教育テレビ『ETV特集』「鶴見俊輔〜戦後日本 人民の記憶〜」(2009年4月12日放送)[1]より
- ^ 毎日新聞1961年12月28日付
- ^ a b 日本人は何をめざしてきたのか 2014年度 知の巨人たち - NHK
- ^ 『思想の科学会報』第32号 1962年2月7日付
- ^ 『日本読者新聞』1962年2月19日付
- ^ 『思想の科学会報』 第35号 1962年3月15日付
- ^ 1962年4月号通巻37号「復刊のことば」1頁より
- ^ a b 「言葉のお守り的使用法について」『思想の科学』創刊号、1946年5月
- ^ a b 共同研究「転向」より
- ^ a b c 『「思想の科学」五十年 源流から未来へ』(思想の科学社)P.56
- ^ 加太こうじ『サボテンの花』(廣済堂文庫)P.195
- ^ a b 日外アソシエーツ現代人物情報
- ^ 20世紀日本人名事典
- ^ 上野博正氏死去/思想の科学社社長
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- 2 思想の科学の概要
- 3 ひとびとの哲学
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