大川慶次郎
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競馬評論家としての大川慶次郎
妻の和子によると、大川は「予想屋」と呼ばれるのを嫌い、「競馬評論家」であることに強い自負を抱いていた。その理由について大川は、「予想屋というのはねえ、訊かれる前から予想してみせる連中のことです。評論家は、訊かれてから初めて唇を開くものです」と説明したという[8]。
競馬評論家として以後も活動を続けようと決意したきっかけの馬はミツハタ(1952年天皇賞・春優勝馬)だったと自身の本で述べている[10]。ミツハタはトキノミノルと同世代にあたるが、トキノミノルに毎回後塵を拝しながらも他馬には常に先着していたイツセイが、トキノミノルの急死以後は同世代の中心となっていくであろうというほかの競馬評論家の論評に疑問を呈した。それは「2400メートル以上の長距離戦になるとイツセイの血統では持たない。逆にミツハタは距離が伸びるとイツセイよりも強い」という自負があったからだったが、1951年11月25日に開催されたセントライト記念(2400メートル、東京。その3週前に菊花賞が開催され、イツセイは3着に敗れた)において、断然人気のイツセイはミツハタに3馬身の差をつけられて完敗し、大川の言う通りの結果となった。それ以後、ミツハタは上記の通り春の天皇賞を制したほかレコード勝ちを4回も果たすなど同世代の最強のステイヤーの称号を得ることになるが、イツセイが勝利を挙げたレースは2000メートルまでのレースに限定された。
予想と言えば馬そのものとその関係者からもたらされる情報だけが対象であった時代に、レースの「展開」をファクターとして取り入れた[2][1]のは画期的とされる。
馬体の好みの問題[1]と、調教代わりにレースを使う陣営への反発もあって、五冠馬シンザンに一度も本命印を打たなかった[1]。ミスターシービーに対しては三冠最後の菊花賞で本命印を打った。そのほか、「私は関西馬のことはよく知らないんですが…」が口癖だった。この言葉は、大川自身が実際にほとんどの関西馬について、自分の目で調教やレースを見ていないことに起因する。また、関西の秘密兵器と言われた馬たちを総じて軽視していた。
(ギャンブルとしての)競馬ではなく「(動物の)馬」が好きでこの業界に入ったこともあってか、馬の体型を一目見ただけで他の予想家や競馬記者が気づかなかった体調や故障、先天的障害を言い当てることもあった。
自分の打った印をもとに馬券を買うファンに対する作法として、みずからも予想の通り馬券を買うのを常とした。パドックを見て予想が誤りであったと直感した際にも作法を曲げることはなかった。「僕は競馬で3億勝っています。でも4億負けています」と『いつみても波瀾万丈』出演時に述べている。かつては予想が外れると脅迫電話が自宅にかかる[5]などファンとの間には殺伐とした関係があり、電車に乗るときには決してホームの一番前に並ばないなど、身辺に注意を払う必要があったという。しかし晩年は若いファンからマスコット的な人気を博すようになり、時代の変化を痛感したという。大川をモデルにした「おしゃべりケーちゃん」人形も制作されている[2]。
大川は自身の見解が違った場合、見解が誤っていたことを認める性格であった。オグリキャップのラストラン有馬記念ではオグリキャップは限界などと話していたが、レース後、スーパー競馬の解説席からオグリが勝利したことについて「私なんていの一番に謝らなきゃいけませんね」と自身の見解が誤っていたことを認めた。他のレースでも同様のエピソードがある一方、1995年、京都記念、日経賞と凡走を続けたライスシャワーについては「所詮、ダービーで16番人気だった馬なんですよ」と最初から実力を認めていないかのように発言。その年の天皇賞・春に優勝したときは「この馬は今日は長い距離だと新聞でも読めるのかねぇ。今まで全然行きっぷりが違いますね」と語ったものの、あくまでライスシャワーは「長い距離で強い馬だった、ということですね」と評価しており、スーパー競馬のライスシャワー追悼コーナーでもそのように発言していた。
「競走馬は馬主のものであるが、レースに登録したときは馬券を買うファンのものとなる」という持論を持っており、後述するようにナリタブライアンの短距離戦出走には批判的であった。
晩年はエアグルーヴが好きで、エアグルーヴが牝馬ながら天皇賞・秋を制した際には「この馬は普通の牝馬じゃないですよ。和田アキ子さんですよ」と絶賛した。エアグルーヴの引退レースとなった有馬記念ではオグリキャップのときのような後悔はしないと、ピークの過ぎたエアグルーヴを絶賛し、敗北後も後悔はしていなかった。
競馬界への批判・提言
競馬マスコミにおいて競馬関係者を批判することをタブー視する風潮がある中で、関係者を公然と批判することがしばしばあった。
とくに大久保正陽については、体調が万全でないナリタタイシンを菊花賞に出走させたことに始まり、同じく体調が万全ではないナリタブライアンを大レースに出走させて惨敗させ続けたこと、距離的な適性があるとは思えない高松宮杯へ出走させたこと、その際に南井克巳から武豊への騎手交代を行ったことを挙げ、「間違いは、大久保調教師自身の見識にあった」と切って捨てた。
境勝太郎元調教師に対しても現役時には批判的な発言が多かった。サクラローレルが海外遠征中に故障を発症したことについては「ローレルのことをよく知る境勝太郎元調教師と装蹄師を同行させなかったことによる人災である」と調教師の小島太を批判した[† 6]。小島については、サクラローレルの引退式に境を管理調教師として参加させなかったことについても「小島太という人間に疑いを持った」と批判している[† 7]。
1990年代に入って、関西馬が関東の平場レースでさえもどんどん勝つような状況になっていったことを踏まえ、「こんな状況が続くようならば、私自身、関西に居を構えなければならない。」と述べ、美浦(関東)の競馬関係者を暗に批判した。
JRAに対しては「馬に食べさせてもらっているのに馬に対する感謝の念が見られない」と批判したことがある。中央競馬のレース名のほとんどが地名や植物名からつけられ、馬名から付けられる事が皆無[† 8]という点に対しても不快感を持っており、著書で批判している。大川の死後JRAは馬名を付けたメモリアルレースを開催することもあった。
天皇賞(秋)の距離が3200メートルから2000メートルに短縮された際には、最後まで反対していた。その理由の1つは(当時の)東京競馬場の2000メートルは枠の内外による有利不利の差が大き過ぎるというものであった。大レースは枠順による有利不利が起こらない条件で行うべきであるという大川の考えは一貫しており、天皇賞(秋)以外にも桜花賞・菊花賞の施行条件を改めるべき[† 9]であると提言していた。
サクラバクシンオーについてのコメントを求められたとき「競馬はスピードを競うもの。(サクラバクシンオーのように)短距離馬にも価値が出てこないといけない」と述べている。また「だらだらと長い距離を走って最後の一周だけで勝負が決まってしまうようなレース[† 10]を踏襲している地方競馬は、中央競馬の姿勢を学ばない限り足元にも及ばない」と批判している。
動物としての馬を知らないで予想をたてる予想家や競馬記者に不快感を持ち「動物学を修めろとは言わないが、馬がどういう動物かくらい勉強すべきだ」とコメントしたこともある。父・義雄の専属調教師だった藤本冨良は、大川を評して「競馬が好きというより、むしろ馬が好きといった方がいい」とし、「やはり、小さいときから馬を見たり、ぼくらと接触していたことが、今日を築くこやしというか、基盤というか、役に立つものがあったのじゃないかな。競馬評論家といわれている人たちのほとんどは、競馬をよく知っているのかもしれないが、競馬との出会いはものごころついてからでしょ。慶ちゃんは、子供のころからうまやで育ったといってもいいからね。彼のいい面はその辺にあると思うね」と述べている[12]。
中継番組でのエピソード
1983年の第3回ジャパンカップ(スタネーラ優勝)のとき「(キョウエイ)プロミス!プロミス!」[† 11]、1984年の菊花賞(シンボリルドルフ優勝)のとき「(ゴールド)ウェイ!!」、1990年の第35回有馬記念(オグリキャップ優勝)のとき「(メジロ)ライアン! ライアン!」[† 12]とレース中に叫ぶ声が実況に被さってしまうこともあった[1]。
1996年の高松宮杯ではスプリント適性のないナリタブライアンが出走したことに対し反対を唱えた。レース後に「このレースは前が止まらないんですよ。勝ち馬と上がりが同じならテンで行けないだけ届かない。追い込み馬というのは前が垂れて自分が垂れないからよく見えるだけであってスプリント戦のようなスピード競馬には不向き」とコメント。ナリタブライアンには「よくやったと思います。褒めてあげて下さい。無事だといいが馬は無理させたことで故障することがある。ちょっと心配」と発言。実際ナリタブライアンはレース後に故障が判明し引退。大川の見識が正しかった。その後1998年の函館3歳ステークスの優勝馬(リザーブユアハート)について将来性を否定する発言をした[13]ところ、番組を見た関係者から抗議があり、翌週の同番組にて「言い過ぎだった」とこの件を謝罪し[13]、以降は馬の将来性を語ることを一切しなくなった。なお該当馬はその後約1年半の間中央競馬の競走に出走したものの、一度も馬券に絡むことなく惨敗を続け、地方競馬(浦和競馬場)へ移籍した[13]ため、こちらも結果として大川の見立ては正しかった。
1999年、盛岡競馬場で行われたマイルチャンピオンシップ南部杯のイベントに出演したところ、予想に関して井崎脩五郎との間で論争となり[14]、テレビ局側が放送を打ち切る事態にまで発展した。このことについては「テレビ局側にも怠慢がある」と非難していた。
注釈
- ^ 1日の全レースの連複を当てること。最初の達成は6枠連単(最大36通り)であり、現行の8枠連複(最大32通り)より組み合わせが多かった。
- ^ 父・義雄の母が渋沢の庶子にあたる。
- ^ のちに大平牧場は「タイヘイ牧場」と名称が変更され、高松宮記念優勝馬サニングデールや名ジャンパー・ゴーカイらを生産した。
- ^ 藤本の厩舎にはかつて父親の義雄も競走馬を預託していたため、自身が幼少のころから藤本と交流があった。
- ^ 大川にしても、新田が「義理人情に生きる」のが表看板の博徒上がりの点は折込済みの行為であった。
- ^ 境勝太郎も「故障の原因の一つは日本から装蹄師を同行させなかったことにある」「休養明けの1997年の天皇賞(春)を-14kgで出走させた事も含め、調教師の腕の問題」という旨のコメントをしている[11]。
- ^ 境勝太郎も「海外遠征について何ら相談はなかったし、馬を引き渡して以後何の連絡もない」という旨のコメントをしている[11]。
- ^ 地方競馬やアメリカの競馬では馬名を冠したレース名をつけることが多い。現在JRAが実施する競走で競走馬の名が冠されているのは、シンザン記念、セントライト記念、共同通信杯(トキノミノル記念)、弥生賞ディープインパクト記念(2020年より)のみである。
- ^ 開催地を前者は京都、後者は阪神に入れ替えると言うもの。当時の阪神1600メートルは、改装後の今と違い1コーナーポケットからスタートしていたため、内外による有利不利の差が大きかった。また、京都3000メートルも3コーナーまでの距離が阪神の同距離に比べ短く、内外による有利不利の差が大きいコースである。
- ^ 当時、東京大賞典を2800メートルで行っていた。
- ^ このとき、大川はキョウエイプロミスを本命としていた。同年開催の秋の天皇賞の勝ち方が大川の目に良く映り、この走りならばジャパンカップでも十分優勝を狙えるという見方をしていた。
- ^ メジロライアンについては特に思い入れが深かったので叫んだが、後に本人は実況担当の大川和彦アナウンサーが先頭のオグリに集中したため、2番手にライアンが上がってきたことを伝えるためだったとコメントしている。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 「優駿ヘッドライン『天に召された“神様” - 大川慶次郎さん、死去』」『優駿』、日本中央競馬会、2000年2月、6-7頁。
- ^ a b c d e f 辻谷秋人「名馬に学ぶ新しい競馬常識 Special Interview 競馬評論家 大川慶次郎さん 競馬の神様が語る昔と違ういまの競馬常識」『優駿』、日本中央競馬会、1994年4月、24-25頁。
- ^ 大村五左衞門『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ 木村2000、264頁。
- ^ a b 『競馬名馬読本2 個性馬たちのバトルロワイヤル』宝島社〈別冊宝島 競馬読本シリーズ〉、1994年3月9日、92-94頁。ISBN 978-4796691932。
- ^ 木村2000、273頁。
- ^ 木村2000、249頁。
- ^ a b 木村2000、274頁。
- ^ 「優駿ヘッドライン『惜別の声、後を絶たず。 - 故・大川慶次郎さんの「思い出を語る会」、遺品の展示に来場者多数』」『優駿』、日本中央競馬会、2000年3月、6-7頁。
- ^ 『大川慶次郎が選ぶ「個性派」名馬18頭』(ザ・マサダ発行)
- ^ a b 『競馬名馬&名勝負読本'98 ファンのファンによるファンのための年度代表馬'97』宝島社〈別冊宝島 競馬読本シリーズ〉、1998年3月16日、52-57頁。ISBN 978-4796693691。
- ^ 名馬づくり60年、40頁。
- ^ a b c 鈴木勝「『馴れ合い』のメカニズム」『日本競馬7つのバカ 〜競馬界さま、おクスリ出てます!〜』(第1刷)アールズ出版、2003年11月、182-184頁。ISBN 4901226630。
- ^ 倉元一浩「南部杯 ニホンピロジュピタ 大川慶次郎VS井崎脩五郎、レース前の大バトルの軍配は果たしてどちらに?」『競馬名馬&名勝負年鑑1999-2000 ファンのファンによるファンのための年度代表馬』宝島社、2000年3月、198-199頁。ISBN 4796694927。
- 1 大川慶次郎とは
- 2 大川慶次郎の概要
- 3 経歴
- 4 競馬評論家としての大川慶次郎
- 5 系図
- 6 参考文献
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