国鉄155系・159系電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 07:02 UTC 版)
159系
1961年に製造された155系の設計変更形で16両が製造された。
製造までの経緯
東京や関西地区につづき、中京地区の学校関係者からも修学旅行用電車の運転を希望する声が高まり、愛知・岐阜・三重三県の利用債方式による修学旅行専用電車導入の要望が出された。当初は1960年に登場する予定だったが、伊勢湾台風により利用債の引き受けが1年延期となり車両の新製も延期[注釈 29]され、翌1961年に中京地区修学旅行用として新造されたのが本系列である。
155系からの変更点
塗装もほぼ同じであり[注釈 30]、基本性能は155系を踏襲していて153系・155系との併結も当然可能であるが、中京地区は東京・関西地区ほど生徒数が多くない上に、修学旅行列車としての運用期間や利用度が高くなく、一方でそれを見越して臨時列車に充当することが多いと判断されたため、車内は153系などに近い構造とされた。
- 変更点
- 通風器を大垣 - 米原間の降雪地帯での運用を考慮して押込形に変更・両側2列4名ずつのボックスシート・壁際に連続して設置した通常の荷物棚・男子用トイレ廃止・扇風機を10→4台へ減少・客室車端部に名古屋鉄道管理局名による「こまどり号電車について」という説明文の掲示・後位2-4エンド側サボ位置の変更。
- 改良点
- 休養スペースを全車設置とし、腰掛布団を引き出して使用する方式[注釈 31]に変更。
形式
形式 | 車両番号 | 製造年 | 製造メーカー | 新製配置 | 備考 |
モハ159 モハ158 |
1 - 3 | 1961 | 日本車輌製造 | 大垣電車区 | 床下機器の耐寒・耐雪工事 浜松工場 (1963年 - 1964年) |
4 | 1962 | ||||
クハ159 | 1 - 4 | 1961 | |||
5・6 | 1962 | ||||
サハ159 | 1・2 | 1961 |
運用
1961年に製造された12両により4月9日から修学旅行用として東京・品川 - 大垣間の「こまどり」に投入された。155系同様予備車なしで8両編成と12両編成で隔日運転し8両運転時に4両分の検修を行う方式が取られた。1962年にはTcMM'Tcの4両が増備され、毎日12両編成での運転が可能になった。また同年秋からは、中国地区 - 中京地区間不定期修学旅行列車「わかあゆ」にも投入された[注釈 32]。
また、閑散期には臨時準急「ながら」や車両運用の都合上「東海」にも投入[注釈 33]された。1973年からは臨時急行「きそ51号」や臨時快速「木曽路」等で、全線電化後の中央西線でも運用された[注釈 34]。1979年頃からは、「こまどり」が冷房付きの153・165系に置き換えられたため、中京地区快速列車などに153・155・165系と共通運用され、車体塗色が湘南色[注釈 35]に改められたのも155系と同様[注釈 36]である。冷房化や飲料水タンク撤去などの改造もされずに新製配置となった車両基地の大垣電車区で運用され続けたが、1979年、京阪神地区に117系が投入された事で新快速運用から退いた153系のうち、冷房車を中心とした状態良好車が大垣電車区に転入したため、玉突きで淘汰され、1980年に全車が廃車·解体[注釈 37]された。
- ^ もとより国内航空路線はジェット化もされておらず、航空輸送自体が大衆化するのは安定成長期以降である。
- ^ 名神高速道路の開業は1963年、東海道新幹線開業は1964年、東名高速道路全通による東京 - 京阪神間の高速道路直結は1969年であった。
- ^ 1950年代当時、ディーゼルエンジン付きの大型バスが普及しつつあり、近距離団体旅行には大型の貸切バスも用いられるようになっていたが、東京 - 関西間の500 kmに及ぶ一般国道経由では、大量高速輸送は不可能であった。
- ^ 当時は自動ドアでなかったため、運転停車という概念はまだ存在しなかった。
- ^ 本来普通列車用の車両であるためトイレは付随車のみで電動車にはなく、3等車(現・普通車)には洗面所もなかった。
- ^ 国鉄電車はすでに1926年以降、自動ドアを標準装備としていた。自動ドアは停車時のみ車掌の操作で開閉され、それ以外の間は自動的に閉鎖・施錠されるため、非常用ドアコックを操作されない限りは開閉不能となる。
- ^ 12両編成分で2億4000万円(当時の金額)・年利6分8厘・10年償還。ただし、この時の見積もりは大雑把なものであったことから、設計製造段階で様々なコストダウンを強いられることとなった。
- ^ 1961年に101系のクモハ・モハ100形で初採用。
- ^ かつての旧形車やモハ71形が同様の方法で狭小トンネル対策を施工されている。
- ^ のちに田町配属車は全車が1968年から1977年にかけて押込形に変更される。
- ^ クハ155-2・8は大垣電車区所属時の1980年度にスカートの取り付けが行われた。
- ^ 1961年の159系登場を機に朱色3号は経時による退色を考慮し色相がやや赤寄りに変わり(マンセル記号9.5R4.8/15→8.5R5/15)、黄1号は塗料種類整理のため黄5号に変更された。
- ^ この塗色は東京地区と京阪神地区の学校を対象に塗絵用紙を配布して1958年11月に公募が行われ、大阪市城東区の放出(はなてん)中学校の生徒の提案が採用された。
- ^ 153系と比較してクハが76名→94名、モハ・サハが84名→104名とした。
- ^ 大型テーブルを接続する固定式の小型テーブルの下には灰皿も取付けられている。修学旅行用電車には不適当ではないかという意見もあったが、大型テーブルを取付けると隠れることや一般使用の際には必要ということで取付けられた。
- ^ 父母対象の展示会では「立ちあがる時、棚に頭をぶつけはしないか」という質問に対し、国鉄技術者が座席から起立して見せ、成人の着席であっても危惧のないことを証明したという。
- ^ 低屋根設計としたために取付部分が屋根上に突出。
- ^ 調光式蛍光灯が利用できる段階でなかったためで減光装置は後年の設置。
- ^ 1950年代当時、主要駅のホームには長距離客が蒸気機関車の煤煙による顔や手の汚れを落とせるよう、旅客用洗面台が多く設置されていた。その洗面台を水筒の水汲みに使おうとしたのが、生徒が勝手に途中降車するハプニングの一因であった。
- ^ 設計に携わった国鉄技術者の星晃によれば、これもまた捻出スペースを活かして設置したもので、床面から立ち上がる水洗式小便器は東洋陶器(現・TOTO)の市販既製品カタログから最も廉価な物を選んで調達した。
- ^ 製造メーカーである日立製作所のサービスで、運転台速度計用の速度発電機の容量に速度計をもう1台動作させる余力があったことから、回路を分けて客室にも引き込んだ。このため、メーター下部には「Hitachi」のロゴがある。しかし運転台のない中間車には速度発電機がないためメーター設置不能で、これを見られるのは運良くクハ155形に乗車することができた生徒たちに限られた。その生徒たちは、速度計を見て「今、時速何キロだ!」などと大喜びしたと伝えられている。
- ^ 第1回目の試乗会には十河信二総裁以下国鉄幹部も同乗した。
- ^ この日は東海道新幹線の起工式が新丹那トンネルで行われ、その脇を一番電車が走り抜けたことになる。
- ^ 列車愛称は、それぞれ東京・関西の中学生たちから募集・選考したもの。ヘッドマークも車両メーカーのサービスで製作され、試運転時から取付けられた。
- ^ 夜行列車での座席仮眠は当たり前の時代で、すべてが効率優先で現代ほど生徒の健康管理が厳しく問われなかった事情もある。
- ^ 後年、明石車は網干電車区(現・網干総合車両所本所)を経て宮原区に転出している。
- ^ 利用債の償還期間が10年で終了するまでは車両を利用するとの取り決めが国鉄と東京都・京阪神修学旅行委員会・日本交通公社の間にあったためである。
- ^ 田町配属車は車内一般化改造前の1966年度から上越線への冬期乗り入れを考慮して、通風器がグローブ式から153系と同様の押込式に交換された。
- ^ 国鉄は1960年4月20日から6月16日の間、153系の予備車10両をやりくりして大垣 - 品川間で修学旅行専用電車「こまどり」を運転して関係者から喜ばれ「愛の電車」として讃えられた。
- ^ 全く別の塗装にすることも希望されていた。
- ^ 引き出された座席の背ずりは傾いた状態。
- ^ 後年には下関運転所(現・下関総合車両所)の167系が投入されるケースもあった。
- ^ この際には、1等車(現・グリーン車)サロ153形が連結されている。
- ^ さらにその間合い運用で中央東線の臨時「アルプス」にも投入された実績もある。
- ^ クハ159形の前面部は、1のみがクハ153形と同じ正面オレンジ1色とされたが、3-6は、正面の修学旅行色の塗り分けラインが引き継がれた。
- ^ モハ159・158-1・2・クハ159-2・サハ159-1の6両は修学旅行色のままで廃車された。
- ^ 161系の3年、157系の17年(クロ157-1と牽引用電動車ユニットを除く)に次ぐ短命系列であった。
- ^ こちらが発祥との説もある。
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