伊賀国庁跡 伊賀国庁跡の概要

伊賀国庁跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/13 04:12 UTC 版)

伊賀国庁跡
伊賀国庁跡
位置

発見前

長らく伊賀国庁の所在地は不明とされていたが、東西4キロメートル・南北3キロメートルの範囲をもつ「府中」という地名が存在することから、この範囲内に国庁があったことは知られていた[3]。印代村は条里制遺構がよく残る万町の沖の一部で、条路と里路が交わる条里制遺構サシガネ(大工の使う曲尺の意味)を朱雀大路に見立て、国庁跡と推測されていた[4]。また、大字西条に残る「国府湊」の地名を、藤堂元甫が著した『三国地誌』にある「国府湊、国府」という記述に比定し、裏付けとされていた[5]1988年昭和63年)に印代で発掘調査が行われたが、奈良平安時代の遺構はほとんど発見されずに終わった[5]。この直後の大字坂之下での圃場整備の際に国庁跡が発見されることになる[5]

発見・発掘

1988年昭和63年)、圃場整備の際に掘立柱建物の遺構が発見され、「國厨くにのくりや」と書かれた墨書土器が出土したことから伊賀国庁跡と断定された[6]。「國厨」と書かれた墨書土器は稲荷前A遺跡(推定相模国府跡)[7]周防国衙跡薩摩国府跡でも発見されている[8]。また、遺構の位置する小字が「国庁さんこくっちょさん」と呼ばれていることや[5][6][1]、一帯が「府中」と呼ばれていること[3][9]明治時代の史料に柘植川北岸に伊賀国庁跡があるという旨の記述があること[5]も根拠となった。遺構は3つの小川が合流する地点に隣接しているが、これは水利に適した場所を独占する意図があったと考えられている[10]。南には、交通の要衝である東海道が通っていたとされる[11]

政庁跡と推測される遺構を囲む柱列[注 1]は1辺40メートルの方形で、沿って溝が巡らされていた[8]。国庁の範囲は、水田の高低差から東西200メートル・南北150メートルと推測されている[11]。おおよそ飛鳥時代から存在していたとされるが、10世紀後半の土器が完形のまま残され、と共に出土したことから、この時期に廃絶されたものと考えられている[8]

現在

御墓山古墳

JR関西本線佐那具駅から徒歩約5分の場所に所在する[1]。現在は大部分が水田に埋め戻されている[1]。周辺には古墳時代から平安時代までの遺構が散見され、古くから栄えた地域であることが確認できる(外山 鷲棚古墳群、楽音寺跡(別名 国分寺)、外山大坪遺跡、御墓山古墳、勘定塚古墳、敢国神社[12]、小宮神社[13]、波多岐神社[14][9]。また、2015年(平成27年)から[6]遺構を保存整備することが計画されている[9]


注釈

  1. ^ 掘立柱の根元が発掘され、直系は約40センチメートルだった。

出典

  1. ^ a b c d 伊賀国庁跡”. コトバンク. DIGITALIO. 2023年10月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月13日閲覧。
  2. ^ a b c d 伊賀国庁跡”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2023年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月13日閲覧。
  3. ^ a b 『伊賀市史 第1巻 通史編 古代中世』,177ページ
  4. ^ 『日本歴史地名体系24 三重県の地名』,平凡社,1983年,816ページ
  5. ^ a b c d e 『伊賀市史 第1巻 通史編 古代中世』,178ページ
  6. ^ a b c 伊賀市教育委員会: “史跡伊賀国庁跡保存整備活用基本計画(中間案)” (PDF). 伊賀市 (2015年7月). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月12日閲覧。
  7. ^ 「国厨」墨書土器他 稲荷前A遺跡第1地点 1号竪穴住居址出土資料 一括(平塚市指定重要文化財)”. 平塚市. 2010年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月13日閲覧。
  8. ^ a b c d 現場だより1 上野市外山 伊賀国府跡” (PDF). 三重県埋蔵文化財センター (1993年10月15日). 2017年11月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月12日閲覧。
  9. ^ a b c d 伊賀市教育委員会: “史跡伊賀国庁跡保存整備活用基本計画” (PDF). 伊賀市 (2016年3月). 2016年9月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月12日閲覧。
  10. ^ 『伊賀市史 第1巻 通史編 古代中世』,137ページ
  11. ^ a b 『伊賀市史 第1巻 通史編 古代中世』,180ページ
  12. ^ 伊賀国一宮。延喜式内。
  13. ^ 伊賀国二宮。延喜式内。
  14. ^ 伊賀国三宮。延喜式内。
  15. ^ 『伊賀市史 第1巻 通史編 古代中世』,182ページ


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