ルワンダ紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/16 20:57 UTC 版)
影響
ブルンジ内戦
1993年10月21日、隣国ブルンジのフツ系のンダダイエ大統領が暗殺されると、フツによるブルンジ虐殺が発生し、ブルンジ内戦(1993年 - 2008年)と呼ばれる報復合戦に突入した。
ルワンダ虐殺
1994年4月6日に、フツのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領とを乗せた飛行機が、何者か(「フツの過激派による犯行」と「ツチの犯行」の二説有り)に撃墜されたことに端を発して、フツ(インテラハムウェ、インプザムガンビ)によるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まった(ルワンダ虐殺、en:List of massacres in Rwanda)。4月7日、アガート・ウィリンジイマナ首相と国連ルワンダ支援団のベルギー人とガーナ人の兵士が大統領警護隊により暗殺される。4月9日、ギコンド虐殺。4月15日、ニャルブイェ大虐殺。
大湖地域の難民危機
7月に、ルワンダ愛国戦線がツチ系の保護を名目に全土を完全制圧し、大量のフツ系難民が発生した(大湖地域の難民危機)。7月19日、フツのパストゥール・ビジムングを大統領、ツチのポール・カガメを副大統領(のち大統領)とする新政権が発足。1994年末、国連ルワンダ支援団のロメオ・ダレール司令官が辞任。1995年4月22日、キベホ虐殺。
同時期に、国連のガーリ事務総長は、ソマリア内戦への介入失敗(モガディシュの戦闘、1993年10月3日 - 10月4日)によりアメリカと対立し、さらに1995年初頭より国際支援が落ち込んで、キヴ州のゴマ(北キヴ州)などの難民キャンプに住む大量のフツ系難民が困窮する等で実務面の弱さを露呈したことから、1996年の事務総長選出ではアメリカの拒否権発動によって再選を拒否された。1996年3月8日、国際連合ルワンダ支援団が活動を打ち切り。
第一次コンゴ戦争
このような国際的な混乱期にあった1996年11月に、フツ系難民流入以前からのツチ系難民内部のバニャムレンゲはルワンダ軍のカモフラージュ役を行なって第一次コンゴ戦争が始まった。1997年、アンゴラがザイール(現コンゴ民主共和国)に出兵してキンシャサを制圧し、モブツ政権が崩壊した。
第二次コンゴ戦争
1998年8月20日、第二次コンゴ戦争。ウガンダが参戦したイトゥリ紛争、ルワンダが参戦したキヴ紛争が始まる。
フランス政府の対応
フランス政府が、虐殺側に立ったフツの援助を組織的に行っていた(フランス軍の展開、武器援助等)など、冷戦時代からの名残を引きずった西欧諸国の思惑が、事態を悪化させたという面もある(その一方でアメリカ合衆国連邦政府は、早くからルワンダ愛国戦線に接近しており、内戦が本格化する以前から、カガメと接触していた)。なお、ルワンダ政府は、後にフランスがカガメを戦争犯罪者として告発したことなどを理由に、フランスと国交断絶したが、2010年にフランス共和国大統領ニコラ・サルコジがルワンダを訪問し、(ハビャリマナ政権に対して)外交的・軍事的な後押しをしたことについて「大きな判断の誤りがあった」と、虐殺に関する責任の一端があることを認めている[7]。
人口統計
前述されているように100万人近い人間が虐殺された。なおルワンダの人口は1995年に約170万人減少したが、2000年には約200万人増加した。これは、ザイール(コンゴ民主共和国)、ウガンダ、ブルンジ、タンザニア等の各国にツチ系ルワンダ人が亡命したことと、その亡命者が大量に帰還したためだと指摘されている[8]。
- ^ a b IPEP 2000.
- ^ 連載ルワンダ史第1回〈フツとツチとは何か? 前編〉
- ^ 連載ルワンダ史第4回〈植民地期 前編〉
- ^ a b 饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月
- ^ ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』12頁
- ^ G.Prunier, Rwanda Crisis(second edition), C.Hurst and Co.Ltd., 2002, ISBN 1-85065-372-0,note 8, p.76.
- ^ 『大虐殺『仏も責任』 サルコジ大統領 ルワンダ初訪問』 - 東京新聞2010年2月27日
- ^ フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』(下)78,79頁
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