ルワンダ紛争 ルワンダ紛争の概要

ルワンダ紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/16 20:57 UTC 版)

ルワンダ紛争

戦争:ルワンダ内戦
年月日1990年10月1日 - 1993年8月4日アルーシャ協定(すぐに和平は崩れた)
場所ルワンダ
結果ルワンダ愛国戦線の勝利。その最中、ルワンダ虐殺が発生
交戦勢力
ルワンダ愛国戦線
ウガンダ
ルワンダ政府軍
フランス陸軍
ザイール 大統領特殊師団
(1990-1991)
指導者・指揮官
フレッド・ルウィゲマ英語版 
ピーター・バインガナ 
ポール・カガメ
ジュベナール・ハビャリマナ 
テオネスト・バゴソラ
オギュスタン・ビジムング
戦力
20,000 RPF[1] 35,000 FAR[1]


前史

「ツチ対フツ」の形成以前

フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった[2]

ルワンダは第一次世界大戦まではドイツ植民地ドイツ領東アフリカであった。

ハム仮説の流布

第一次世界大戦以降はベルギー植民地ルアンダ=ウルンディであった。ベルギー植民地下では、少数派であるツチを君主および首長等の支配層とする間接支配体制が築かれた。ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られ、多数派のフツとごく少数のトゥワは差別的な扱いを受けていた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布し(ジョン・ハニング・スピークハム仮説英語版)、ツチとフツは大きく対立し始めた[3]。植民地支配の道具としてツチの支配が形成され、1930年代にはIDカードの導入により固定化が図られ[4]、フツとトゥワはあらゆる面で差別を受けた。いずれの民族に属するかの基準は、父方の血統をもとに決められた[5]

フツ・パワーの形成

1959年に始まったルワンダ革命英語版1959年 - 1961年)でツチとベルギー当局との関係が悪化し、ベルギー当局は国連からの関係改善の勧告を無視して社会革命としてフツによる体制転覆を支援した(フツ・パワー)。植民地解放の気運が高まるとベルギー当局とカトリック教会は多数派のフツ側に立場を逆転させたが、現地のカトリック教会の神父修道者に犠牲者が出ており、教区全員を虐殺された教会もある。この結果、ツチは報復を恐れて近隣諸国、特にウガンダに脱出した。1962年に独立。

ルワンダ愛国戦線(FPR)の形成

1973年クーデタールワンダ・クーデター英語版)により政権に就いた、フツのジュベナール・ハビャリマナは、ツチに対する種族融和政策を採った。そこでは、ツチは少数派として周縁化されていたが、政治活動に関与しない限りは弾圧されず、むしろ経済活動は推奨され、政府と良好な関係を持つツチの有力ビジネスマンも出現した。フツ・ツチ間の通婚も進み、両者は共存していた[4][6]

しかし、ウガンダでは、1959年のルワンダ革命やその後の騒乱、クーデターなどで国外脱出をしたルワンダ人ツチ系難民の子弟が、長期にわたり、難民キャンプでの生活を余儀なくされていた。彼らは、ウガンダでもバニャルワンダと呼ばれ差別されていた。 かくして、彼らツチ系難民の多くの者が、ウガンダ内戦英語版1981年 - 1986年)において反政府軍側について戦い、その勝利に貢献した。ツチ系難民の指導者、フレッド・ルウィゲマ英語版ポール・カガメらは、ウガンダにおいて重要な地位を占めるようになった。

ウガンダ内戦が終結すると、彼らはルワンダ愛国戦線 (英:RPF、仏:FPR) を組織して、ウガンダを拠点に、フツのハビャリマナ政権に対する反政府運動を活発化させることになる。

戦闘の推移

1990年10月1日、RPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発した。

1993年8月4日、ルワンダ愛国戦線の猛攻と国際世論の高まりにより、アルーシャアルーシャ協定が結ばれ、和平合意に至った。10月5日国際連合ルワンダ支援団が設立される。


  1. ^ a b IPEP 2000.
  2. ^ 連載ルワンダ史第1回〈フツとツチとは何か? 前編〉
  3. ^ 連載ルワンダ史第4回〈植民地期 前編〉
  4. ^ a b 饗場和彦「ルワンダにおける1994年のジェノサイド」『徳島大学社会科学研究』第19号 2006年1月
  5. ^ ポール・ルセサバギナ『ホテル・ルワンダの男』12頁
  6. ^ G.Prunier, Rwanda Crisis(second edition), C.Hurst and Co.Ltd., 2002, ISBN 1-85065-372-0,note 8, p.76.
  7. ^ 大虐殺『仏も責任』 サルコジ大統領 ルワンダ初訪問』 - 東京新聞2010年2月27日
  8. ^ フィリップ・ゴーレイヴィッチ『ジェノサイドの丘』(下)78,79頁


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