リスボン地震 (1755年) 政治への影響

リスボン地震 (1755年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 06:38 UTC 版)

政治への影響

ポルトガルの内政における地震の衝撃は非常に大きかった。地震以前、宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョは王の寵臣であったが、貴族たちは彼を郷士の息子からの成り上がりとして軽蔑した(彼は今日ではポンバル侯爵と呼ばれるが、この爵位は地震の15年後の1770年に得たものである)。一方で宰相の方は古い貴族たちを、腐敗しており実際的な行動ができない無能な集団として嫌った。

ポンバル侯爵セバスティアン・デ・カルヴァーリョ

両者の間には権力と王の寵愛をめぐる絶えざる衝突があったが、この地震を境に、有能な対応を示した宰相が古い貴族層の権力を上回った。貴族層は宰相を重用する王ジョゼ1世に対する反感と恨みを募らせ、1758年には王の暗殺未遂事件が起きた。これを機に宰相は貴族の一掃に乗り出し、陰謀を裏でめぐらせていたとされたポルトガル最大の貴族アヴェイロ公爵 (ptは処刑され、その一族は勢力を奪われた。震災の原因をリスボンの人々の「罪」にあるとしたイエズス会もポルトガルの領土から追放され、財産を国庫に没収された。以後、敵のいなくなった宰相は啓蒙主義的専制政治を行い、ポルトガルを独裁支配する。

社会的・哲学的影響

地震が与えた衝撃はヨーロッパの精神にもおよんだ。当時の通俗的な理解では、地震とは自然現象というより神罰である。しかし、多くの教会を援助し、海外植民地にキリスト教を宣教してきた敬虔なカトリック国家ポルトガルの首都リスボンが、なぜ神罰を受けねばならなかったのか、なぜ祭日に地震の直撃を受けて多くの聖堂もろとも町が破壊され、善人も悪人も罪のない子供たちも等しく死ななければならなかったのかについては、18世紀の神学哲学では説明の難しいものであった。

地震はヨーロッパの啓蒙思想家たちに強い影響を与えた。当時の哲学者の多くがリスボン地震に言及しているが、ヴォルテールの『カンディード』や『リスボンの災害についての詩』(Poème sur le désastre de Lisbonne)は特に有名である。『カンディード』は、《慈悲深い神が監督する我々の「最善の可能世界」(le meilleur des mondes possibles)では、「すべての出来事は最善」である》という楽天主義を痛烈に攻撃し、『リスボンの災害についての詩』でも「すべては善である」というライプニッツ派の観念や、リスボンには天罰が下ったという意見に対して激しく反論する。

ヴォルテール

リスボンの悲劇は、ヴォルテールに楽観論への反証を与えるものだった。テオドール・アドルノは「リスボン地震はライプニッツ弁神論(慈悲深い神の存在と悪や苦痛の存在は矛盾しない、という議論)からヴォルテールを救いだした」と述べている。ヴォルテールは、災害によってリスボンが破壊され、10万もの人命が奪われたのだから、神(創造主)が慈悲深いわけがないと主張した。当時のヨーロッパの知識人にとり、リスボン地震の衝撃による文化的・哲学的転換は、20世紀後半におけるホロコーストの衝撃に比べられるほど大きかった。

ジャン=ジャック・ルソーもこの地震による被害から衝撃を受けた一人であり、被害の深刻さはあまりにも多くの人々が都市の小さな一角に住んでいることから起こったものだとした。ルソーはこの地震は神罰ではなく文明のおごりが起こした人災と考え、都市に反対し、より素朴で自然な生活様式を求める議論に引用した。また神の善意を疑問視するヴォルテールの論に対して神の摂理を弁護し、この地震は被害に遭った人たちにとっては不幸でも、神にとっては全体の幸福のためのなんらかの目的があったと考えるべきであり、「すべては善」ではなくても、「全体にとっては善」とは言えると反論している。

人間の力のおよばない自然の巨大さなどへ対する感情である「崇高」という概念は、1755年以前から存在したものの、それを哲学の中で発展させて非常に重要な概念としたのはイマヌエル・カントであった。カントは崇高の概念を、リスボン地震と津波の甚大さを理解しようとする試みの中から発展させた。カントはこの地震について3つの薄い書物を出版している。若い日のカントは地震に魅せられ、報道から地震被害や前兆現象など可能な限りの情報を集め、これらを使って地震の起こる原因に関する理論を構築した。彼は熱いガスに満たされた地底の巨大空洞が震動して地震が起こると考えた。これは、誤りであることがのちに分かったが、地震は神罰のような超自然的な原因ではなく自然の原因から起こる、という仮定によって地震のメカニズムを説明しようとした、近代のもっとも初期の試みと言える。

ヴァルター・ベンヤミンによれば、カントが出版した地震についての書物は、「おそらくドイツにおける科学的地理学の始まりを代表するものであり、そして確実に地震学の始まりである」[15]

ドイツの哲学者ヴェルナー・ハーマッハーによれば、地震の結果は哲学用語にもおよび、硬い根拠を大地に例えて「ground」と呼ぶ比喩がぐらつき、不安定なものとなったという。「リスボン地震により起こされた印象は、ヨーロッパのもっとも神経質な時代の精神に触れたため、「大地」や「震動」の比喩はその明らかな無垢さを失い、もはや単なる修辞には過ぎなくなってしまった」[16]。ハーマッハーはルネ・デカルトの哲学のうち「確実性」に関する部分がリスボン地震後の時代に揺らぎ始めたという。

地震学の誕生

ポンバリーナ様式の耐震構造

宰相セバスティアン・デ・カルヴァーリョの震災に対する対応は、都市の再建にとどまらなかった。宰相は国中のすべての教区に質問状を送り、地震とその影響を回答させた。この質問には以下のようなものがあった。

  • 地震はどのくらい続いたか。
  • 例えば南北方向に強く揺れたというふうに、地震の揺れに特定の方向はあったか。建物の崩壊でも、特に一方向に崩れるということはあったか。
  • 余震は何回感じられたか。
  • 死者の数など、どのような被害があったか。
  • 海水位は引くのが早かったか、それとも上昇が早かったか。海は普段の水位からどれだけ上昇したか。
  • 動物が不審な振る舞いをしなかったか。
  • 井戸や水穴には何が起こったか[17]

これらの質問へ寄せられた回答は、現在も国立公文書館トーレ・ド・トンボ(サン・ジョルジェ城)に保存されている。現代の研究者たちは教職者たちの回答を研究し、相互に参照して、大地震を科学的な見地から再現することができる。宰相が考えた質問がなければ、これは不可能であった。客観的かつ科学的に地震の原因と結果を調べようとしたポンバル侯爵は、近代地震学の先駆者と評価されている。

この地震の原因などについては、残された資料や地質調査などをもとに、今日も研究者により研究と議論が続いている。


  1. ^ リスボン大地震 - 白水社. https://www.hakusuisha.co.jp/book/b629994.html 
  2. ^ Between History and Periodicity: Printed and Hand-Written News in 18th-Century Portugal
  3. ^ 2011年3月11日に日本で発生した東北地方太平洋沖地震(M9.0)にほぼ匹敵。
  4. ^ アゾレス・ジブラルタル断層の一部と考えられている。震源というのは最初に地震が起こったところを指し、地震の規模から考えて動いた断層は数百km以上に及ぶ。
  5. ^ リスボン地震とその文明史的意義の考察 (公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構 研究調査本部
  6. ^ 樺山によれば「断続的に数十分」。数十分間隔で3回という説もある。
  7. ^ Viana-Baptista MA, Soares PM. Tsunami propagation along Tagus estuary(Lisbon, Portugal) preliminary results. Science of Tsunami Hazards 2006; 24(5):329 Online PDF. Accessed 2009-05-23. Archived 2009-05-27.
  8. ^ Brockhaus' Konversations-Lexikon. 14th ed., Leipzig, Berlin and Vienna 1894; Vol. 6, p. 248
  9. ^ Lyell, Charles. Principles of Geology. 1830. Vol. 1, chapter 25, p. 439 Online electronic edition. Accessed 2009-05-19. Archived 2009-05-21.
  10. ^ Blanc P.-L. Earthquakes and tsunami in November 1755 in Morocco: a different reading of contemporaneous documentary sources. Nat. Hazards Earth Syst. Sci. 2009; 9: 725–738. Online PDF. Accessed 2009-05-23. Archived 2009-05-27.
  11. ^ Kendrick. The Lisbon Earthquake. pp. 75  Kendrick writes that the remark is apocryphal and is attributed to other sources in anti-Pombal literature.
  12. ^ Gunn(2008), page 77.
  13. ^ 樺山。
  14. ^ 大地震から「失われた250年」をたどるポルトガル”. 日本経済新聞 (2012年3月13日). 2023年11月1日閲覧。
  15. ^ Benjamin, Walter. "The Lisbon Earthquake." In Selected Writings vol. 2. Belknap, 1999. ISBN 0-674-94586-7. 難解なことで知られるベンヤミンは1930年代に子供のためのラジオ番組を持った。1931年の放送ではリスボンの地震とヨーロッパ思想への衝撃を簡略に述べている。
  16. ^ Hamacher, Werner. "The Quaking of Presentation." In Premises: Essays on Philosophy and Literature from Kant to Celan, pp. 261–293. Stanford University Press, 1999. ISBN 0-8047-3620-0.
  17. ^ Shrady, The Last Day, pp.145-146


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