ナウクラティス 背景

ナウクラティス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/12 06:06 UTC 版)

背景

考古学的証拠から、エジプトでの古代ギリシアの歴史は少なくともミケーネ文明のころまで遡ると見られており、さらに古いミノア文明にまで遡ることも示唆されている。ただし、それほど古いギリシア植民都市の痕跡は見つかっていないため、その歴史は純粋に交易の歴史である。

ミケーネ文明が消滅し暗黒時代(紀元前1100年から750年ごろ)を経て、紀元前7世紀にギリシア文化が再び開花すると、中東と新たに交易が始まり、特にメソポタミアエジプトという2大文明圏と交流するようになる。

ナウクラティスの位置を示した地図

紀元前7世紀エジプトでのギリシャ人の活動を記録した最古の文献はヘロドトスの『歴史』で、イオニア人とカリア人の海賊が嵐で難破し、ナイル川デルタ(付近)に漂着したという話を伝えている。エジプト第26王朝サイス朝)のファラオプサメティコス1世(紀元前664-610年ごろ)はその当時、他の下エジプトの支配者達と対立し、敗走していた。そしてプトの町のレートー神託を求めたところ、「海からやってくる青銅の人々」の助力を求めよという託宣が下った。難破した海賊達は青銅製の鎧を身につけていたため、ファラオは彼らの助力を求め、見返りとして報酬を提供すると申し出た。海賊達の加勢によってファラオは勝利を収め、報酬としてナイル川のペルシウム支流沿いに2区画の宿営地を与えた[1]

歴史

文献

紀元前570年、ファラオ・アプリエス(治世: 紀元前589-570年)は、その傭兵たちの子孫を中心とする3万人のカリア人とイオニア人を再び雇い、元将軍で反逆者となったイアフメスと戦わせた。彼らは勇敢に戦ったが敗北し、イアフメス2世(治世: 紀元前570-526年)がファラオとなった。イアフメス2世はギリシャ人傭兵の宿営地を閉鎖し、彼らをメンフィスに移し「同族であるエジプト民族からファラオを守る」親衛隊として雇った[2]

ヘロドトスによれば、イアフメス2世はこのギリシャ人達を好み、様々な報酬を与えた中で、ナウクラティスという都市への定住を許したのだという。ヘロドトスの記述では、ナウクラティスはギリシャ人が作ったのではなく、それ以前から存在していたと見られ、考古学調査でもそれが裏付けられている。この元々あった都市にはエジプト人、ギリシャ人だけでなく、フェニキア人も混在して住んでいたと見られている。その都市が紀元前570年以降間もなくギリシャ人に譲られたと考えられている[3]

イアフメス2世はナウクラティスを西洋との交易拠点および港に転換させた。これにはギリシャ人を1箇所に封じ込め、彼らの活動をファラオの制御下に置くという意味もあった。したがってナウクラティスは特定の都市国家の植民都市として始まったのではなく、シリア北部の交易拠点アル・ミナのようなエンポリウム(交易拠点)として始まった。

ヘロドトスによると、ナウクラティスには Hellenion という聖域(壁で囲まれた神殿)があり、次の9つのギリシア都市国家が共同で運営していたという[4]

ミレトスサモスアイギナHellenion とは別の聖域を持っていた。したがって、ナウクラティスには少なくとも12のギリシア都市国家の人々が共同で暮らしていた。これだけでも珍しいが、かなり長い間続いたと判明している。

発掘

ナウクラティスはフリンダーズ・ピートリーが1884年から1885年に発掘して発見した。その後、E.A. Gardener が発掘を引き継ぎ、D.G. Hogarth が1899年から1903年にかけて発掘した。

ピートリーの描いたナウクラティスの平面図

考古発掘の焦点は北と南の2つの区域に絞られた。南端にはエジプト人による倉庫または宝物庫(右図ではAにあたる。ピートリーは「大きな聖域」と呼んでいた)があり、その北側にギリシャ人が日干しレンガで作ったアプロディーテーの神殿(約14m×8m)があった(ヘロドトスの記録にはない)。その神殿の東隣りからはファイアンス焼きスカラベの印章を作る工房が見つかっている[5]

北の区域では、いくつかの神殿の遺跡が見つかっている(E: ヘーラー神殿、F: アポローン神殿、G: ディオスクーロイ神殿)。ヘロドトスが記していた Hellenion は Hogarth が1899年に発見した(図ではFの東隣り)。奉納された陶器の年代から、イアフメス2世の治世よりも古くからこの聖域が存在していたことが明らかとなっている[6]

1977年、アメリカの考古学者 W. Coulson と A. Leonard が「ナウクラティス・プロジェクト」[7]を立ち上げ、1977年から1978年にかけて調査を行い、1980年から1982年まで主に南部の発掘を行った。だが、彼らが現地に赴いた時には、地下水面の上昇によって北の聖域部分の地下15m以下の部分は地下湖に沈んでいた[8]。今もナウクラティスの北部は水面下にあり、さらなる調査を困難にしている。

それまでの発掘調査は相補的とは言えず、宗教的部分だけが注目され、商業的側面や住居としての側面はほとんど無視されていた。ナウクラティスの歴史上の重要性はその交易拠点としての特殊性にあるが、そういった観点の調査はほとんど行われていなかった。さらに、ヘレニズム時代やローマ帝国時代の変遷も完全に無視されていた[9]

さらに彼らを落胆させたのは、地元民による破壊である。ピートリーの時代に既に3分の1の区域が日干しレンガを肥料にするために掘り返されていた。その後約100年の間にナウクラティスの東部の日干しレンガはほぼ掘りつくされていた[10]

地下水面の上昇により、彼らはプトレマイオス朝より古い部分を調査できなかった。ピートリーが「大きな聖域」とした場所がエジプト人による建物であるという点では Hogarth と同意見で、この遺跡の南部はギリシアとは無関係の町だという[11]

主な出土品は陶器で(ほとんどは破片だが、完全なものもある)、神殿に奉納されたものだが、石の肖像やスカラベの印章なども見つかっている。それらは世界各地の博物館に分散して収蔵されており、初期の出土品の多くはイギリス(主に大英博物館)、その後の出土品は主にアレクサンドリアの博物館に収蔵された。

影響

エジプト側がギリシア側に交易品として提供したのは主に穀物だが、他に亜麻布やパピルスもあった。一方ギリシア側がエジプト側に提供したのは主に銀だが、他に木材やオリーブ油やワインもあった[12]。ナウクラティスはサイス朝ファラオに戦術や航海術に長けた傭兵を供給してくれる場所となった。

ナウクラティスで見つかったスフィンクスの描かれた皿。紀元前6世紀古代ギリシアの東方化様式

ギリシャ人にとってナウクラティスは、青銅器時代以降ギリシアでは失われたエジプトの建築や彫像の驚異に触れる場所として着想の源泉となった。エジプトの工芸品は間もなくギリシアへの交易品となりギリシア世界に流通するようになった。一方でギリシア美術もエジプトに流入したが、外国人嫌悪的なエジプト文化への影響は極めて小さかった[13][14]

ヘロドトスは幾何学 (γεωμετρία) がエジプトで生まれ、ギリシアに伝えられたとしているが[15]、今ではエジプトからギリシアに伝えられたのは「測量技術」であって、純粋な数学の一分野としての「幾何学」とは異なるとされている。実際タレスはエジプトに旅行する前から幾何学を確立させていたが、ヘロドトスはエジプトの幾何学の方がギリシアよりも古いと考えていたため、タレスがエジプトで幾何学を学んだと考えたと見られている[16]

ナウクラティスで見つかったギリシア文字は発生期の特に初期のものであることが判明している。陶器に書かれた銘には、イオニア方言、コリントス方言、ミロス島方言、レスボス島方言などの最古の記述があった[17]フェニキア文字からの変化の過程にあるものもあり、特に興味深い。約1世紀後に確立された現代のギリシア文字の形との比較から、ギリシア文字がどのように成立し広まって行ったかを知る資料となっている[18]

ナウクラティスはエジプトにおけるギリシアの植民都市としては最古ではない。アレクサンドリアが建設されるまでは古代エジプト有数の港だったが、ナイル川の流れが変化して港として機能しなくなっていった。


  1. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻152節 [1]
  2. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻154節 [2]
  3. ^ 考古学調査によれば、ナウクラティスの成立は紀元前625年ごろまで遡ると見られている。詳しくは Peter James (2003) NAUKRATIS REVISITED を参照
  4. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻178節 [3]
  5. ^ 本文の位置の説明は、ピートリーの最初の発見に従ったものではなく、最新の考古学的発見に基づいている。
  6. ^ Boardman 1980, pp. 120–121
  7. ^ Leonard & Coulson 1982
  8. ^ Leonard & Coulson 1979, p. 154 - ("On arriving at Naukratis the visitor may well be disappointed for the entire site of the early excavations is under water, a plight predicted by Petrie in 1886..")
  9. ^ Leonard & Coulson 1979, p. 153
  10. ^ Leonard & Coulson 1979, p. 159
  11. ^ Leonard 1997, p. 14
  12. ^ これを "corn-for-coin" 仮説ともいう。
  13. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻79節。「エジプト人は自分達の習慣に執着し、外国の習慣を全く採用しない」
  14. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻91節。「エジプト人はギリシアの風習を採用しないし、どんな外国の風習も採用しない」
  15. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻109節 [4]
  16. ^ Lloyd 1975, pp. 52–53
  17. ^ Petrie 1890, p. 271
  18. ^ Gardner 1886, pp. 222–3
  19. ^ ヘロドトス『歴史』第2巻135節 [5]






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ナウクラティス」の関連用語

ナウクラティスのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ナウクラティスのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのナウクラティス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS