タケクマヒカル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 01:23 UTC 版)
経歴
父のテューダーペリオッドはオーエンテューダー系のサラブレッドで、同期のハマノパレードや後輩のハシハーミットを送り出した。
戦績
1971年(昭和46年)8月に中山芝1200mの新馬戦でデビューすると、9月から10月にかけては3連勝し、東京芝1400mのオープン戦では2着馬を5馬身ちぎって人気に応えた。
1972年(昭和47年)はNHK杯で3番人気に支持されて5着、日本ダービーでは9着に終わる。その後は当時「残念ダービー」と言われた日本短波賞に駒を進め、当日は13頭中10番人気であったが、スガノホマレ・イシノヒカル・タカイホーマに次ぐ4着に健闘。秋は条件戦を2戦使い、共に1番人気に支持されて2着であった。
その後は長期休養を挟み、1973年(昭和48年)10月の400万下で復帰。約1年ぶりのレースとなったが、1番人気に推されて2年ぶりの勝利を挙げる。
1974年(昭和49年)はニューイヤーS(700万下)から始動し、睦月賞(700万下)を勝利すると、東京新聞杯では2着に入った。5月の京王杯SHで重賞初制覇を飾ると、6月には大井で行われた中央招待に参戦。レース当日は1番人気に推されたが、ゴールドイーグル(愛知)・イナボレス・ノボルトウコウに次ぐ4着に終わった。
日本経済賞では2着馬を4馬身ちぎって快勝しイチフジイサミ・ベルワイドを抑えて重賞2勝目を挙げたが、重賞2連勝を狙った京王杯AHではスガノホマレの2着に終わる。
毎日王冠でカミノテシオを抑えて重賞3勝目を飾り、続く10月の中山オープン戦で2連勝し、初の大レースとなった天皇賞(秋)ではホウシュウエイト・イチフジイサミに次ぐ3番人気に推されたが、12着に大敗。同年引退。
引退後
引退後は種牡馬となったが、目立った産駒を出せなかった。その後の動向は不明。
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