シトカの戦い その後

シトカの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 13:30 UTC 版)

その後

キクスアディが「白鳥の歌」を謳って出発したあとで、ロシア軍が海岸を確保しシスキノーウの周りを偵察したのは10月7日だった。ロシア軍は先住民が一人も居ないことを知って驚かされた。ロシア軍は知らなかったが、トリンギット族は今日「シトカ・キクスアディ生き残りの行進」と呼ばれる船出をしていた。

10月8日、リシャンスキー船長は放棄されたトリンギット族の砦を訪れそこで見たものの印象を書き残した。

上陸してみると、最も頑なな心でも震えたじろがせる野蛮な光景を目にした。赤ん坊や犬の声でも聞こえるのではないかと森の中を探ったが、シトカの人々はそれら全てに死を与えていた。全体の雰囲気から判断すると砦には少なくとも800名の男性ばかりが居たと結論づけた。

砦は徹底的に破壊され二度とロシアに対する反攻のために使われないようにした。「ネバ」は11月10日にシトカ湾に向かった。[1]

シトカ・キクスアディの生き残りの行進

トリンギット族の最初の行程は徒歩で「ガヤー・ヘーン」から「ダヘイト」へ行くことだった。そこは伝統的な先住民の食料である数の子を毎年5月に収穫するナクワシナ湾の漁場であった。そこから、山地を横切って北の「チャートル・カーノーウ」に至る道は憶測するしかない。チャートル・カーノーウにはペリル海峡のポイント・クレイブンにあるキクスアディの「ハリバット砦」があった。しかし、ベラノフ島の北西にある湾を回る海岸ルートが島の深い森を避けられるのでありそうなコースである。これはシトカ・クワーン(シトカ族)に関するハーブおよびフランク・ホープによって行われた最初の調査によって裏付けられている。アカスギの幹で作られたカヌーであれば、チチャゴフ島までの海洋も航海できた。

戦闘の後も幾らかの戦士が「ノーウ・トライン」の近辺に後衛として残され、ロシア人開拓者に嫌がらせを行い、またキクスアディが北へ逃げ延びる間ロシア軍の追跡を防いだ。その後間もなく8名のアレウト族罠猟師がジェイムズタウン湾で殺され、またニューアークエンジェルの近くの森で撃たれた者もいた。その時点から後は、ロシアの猟師の一隊が大勢で出かけてそれ以上の攻撃が無いように警戒した。キクスアディは他のトリンギット族にいかなる場合もロシア軍と接触しないように推奨した。

ロシア領アラスカ

ロシアの砦の防柵

「ノーウ・トライン」の「ケコール」(丘)の上には、ロシア軍が自軍の砦(krepost)を建設し、トリンギット族の攻撃に備えて、高い木製の柵壁と3基の望楼および32門の大砲を備えた。1805年の夏までに、砦の中には8棟の建物が建てられ、作業場、宿舎および知事の宿舎に宛てられた。キクスアディは毎年インディアン川河口近くの「ヘリング・ロック」に遠征を行う他は、1821年まで拡大する植民地との問題を避けていた。ロシアは先住民族の狩りの腕前から利益を得ることを期待し、開拓地に対する散発的な襲撃を終わらせたいと考え、トリンギット族にシトカに戻るよう要請した。シトカは1808年ロシア領アメリカの新しい首都に指定されていた。

1962年に復元されたロシアの砦の望楼

戻ることを選んだトリンギット族は「基地の丘」のしっかりと守られた防御柵の直ぐ下の集落の一部(この地域は1965年ころまで「ランチェ」と呼ばれた)に住むことを許された。ロシア軍の砲兵隊は常に訓練されて、「シスキノーウ」で敗北したことを思い出させた。キクスアディは入植者に栽培法を教えられたトウモロコシを含み食料やラッコの生皮をロシア人に供給し、入植者はトリンギット族にロシアの文化やロシア正教会の様々な面を教えた。トリンギット族による反攻はときたま起こり、1855年の重大な武装蜂起の後、1858年までに終息した。ロシア領アメリカが1867年にアメリカ合衆国に売却され、ロシアの財産は全て、アメリカ会社とともに清算された。この領有権移行に伴い、土地のトリンギット族の多くの長老はロシアが売却できる権利があるのは「キャッスル・ヒル」だけだと主張した。トリンギット族の主張は20世紀後半まで顧みられることがなく、1971年アラスカ先住民権益措置法によって決着した。

1880年の国勢調査によれば、キクスアディの伝統的な夏の漁場であるインディアン川近くに住んでいたトリンギット族は43名であった。

慰霊

アメリカ合衆国大統領ベンジャミン・ハリソン1890年に「シスキノーウ」を公的な用途に使うものと指定した。1972年10月18日、「アラスカにおけるトリンギット族とロシアの経験を記念するために」戦場跡にシトカ国定歴史公園が設立された。今日、トリンギット族の犠牲者の栄誉を称え、「シスキノーウ」の地に「カルヤーン・ポール」(トーテムポール)が建てられている。戦いで戦死したロシア軍水兵の記念のために、「タ・エートル」がロシア軍が上陸したインディアン川の向こう岸に置かれている。2004年9月、戦いから200年を記念して両軍の戦闘員の子孫が集い、トリンギット族の伝統的な「泣きの儀式」を行って、亡くなった先祖を公式に弔った。翌日、キクスアディは、悲しみの2世紀を「取り払う」和解の儀式を行った。


  1. ^ a b Postnikov
  2. ^ Nordlander, p. 8
  3. ^ a b c d e Hope


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