ガングート級戦艦 艦体構造

ガングート級戦艦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 02:57 UTC 版)

艦体構造

本級の船体設計は、基本的に前級であるインペラートル・パーヴェル1世級を弩級戦艦のスタイルに改めたものである。日露戦争時の戦訓によって浸水を防ぐべく舷窓を少なくする設計を前級から踏襲したために換気能力の低下をもたらし、冬季は保温に優れるが、夏場は通風不良によって乗員の体調を損なうという欠陥もそのまま引き継いでしまった。

艦体の材料に高張力鋼を採用して船体重量の軽量化を図ったが、初めての採用であったため船体強度の計算に問題を起こした。このため建造工事を中断して設計をやり直し、建造期間が延びる結果となった。この時の設計ミスにより主砲斉射時には船体が耐えられなかったと伝えられている。この船体の強度不足は、1920年代の近代化改装の時に補強工事を行って改善された。

防御

図は本級の初期設計でマストが前級と同様に籠状マストのまま。武装と防御の配置は実際に建造された物と変わらない。

本級の防御方式は準弩級戦艦時代と同じく全体防御方式を採用しており、艦首から艦尾直前までの水線部の広範囲にわたって防御された。水線部の1番主砲塔から4番主砲塔の間にかけての117.2mの範囲に末端部は152mmから中央部は最大厚さ225mmの主装甲が張られ、艦首にかけては150mmから125mm→100mmへと薄くなった。

副砲ケースメイトを含む、水線装甲から中甲板までの上側の広範囲には125mm装甲が張られて防御され、艦首と艦尾部は75mm装甲で守られていた。舷側から内部の縦隔壁にも断片防御として38mmから51mmの装甲が張られた。舷側水線下の水密隔壁には最大で38mm装甲が張られて防御された。水密区画は2層式で、そのうち1層はそのまま艦底部の二重底にまで伸ばされていた。副砲ケースメイト部は125mm装甲だが、副砲の基部の防盾は75mmであった。

甲板の防御は最上甲板が12mm、その下の中甲板が25mmで、主甲板は水平部が25mmで舷側装甲と接続する傾斜部は50mmであった。甲板上の司令塔は最大厚250mm装甲が側面に貼られ、天蓋部は100mm装甲であった。煙突の基部は22mmの装甲で防御されていた。

主砲塔は前盾と側面部が203mm、天蓋部は76mmであった。その主砲塔を支えるバーベット部の装甲厚は甲板上は203mmで甲板から下は150mmから75mmへとテーパーした。これは同世代の弩級戦艦「ドレッドノート」の主砲前盾と舷側装甲が279mmであることを考慮すれば防御力不足であった。

第二次近代化改装後

艦名 主ボイラー 出力 速力 燃料
ガングート
オクチャブルスカヤ・レボルチャ
重油専焼缶12基 60,600馬力 22.5ノット 重油2,018トン
ペトロパヴロフスク
マラート
重油専焼缶22基 61,110馬力 23.8ノット 重油1,950トン
セバストーポリ
パリジスカヤ・コンムナ
重油専焼缶12基 60,600馬力 22.5ノット 重油2,115トン

艦歴

竣工後から第一次改装時

1930年代に撮られた「セバストーポリ」。

数々の紆余曲折を経て設計が決まったガングート級であるが、前述の船体設計のミスにより建造が大幅に遅れ、辛うじて第一次世界大戦中に完成したものの、ほとんど行動できず、更に戦後のロシア革命により艦名は様々に変更された。

  • 「ガングート」→1925年「オクチャブルスカヤ・レボルチャ」[注釈 1]
  • 「ペトロパヴロフスク」→1921年「マラート」→1943年「ペトロパヴロフスク」→1950年砲術練習艦「ヴォルコフ」
  • 「ポルタヴァ」→「ミハイル・フルンゼ」
  • 「セバストーポリ」→1921年「パリジスカヤ・コンムナ」→1943年「セバストーポリ」

このうち「ポルタヴァ」はペトログラード付近で船内火災により大破し、沈没を防ぐためにネヴァ川の川面に座礁させられた後は、1925年に使える兵装や部品を取り外して船体は放置された状態で、1926年に「ミハイル・フルンゼ」と改名、1928年に復旧工事が開始されたが遅々として進まず、結局は1950年代に解体された。

他3隻は予算や人員の都合から放置されたために練度の低い海軍の運用による損害を免れて1922年のソビエト海軍発足時まで生き残った。稼動状態にあった3隻は1924~26年にかけて整備を兼ねた第一次近代化改装を行った後に再就役した。

第二次改装時からその後

1937年に英国スピッドヘッドで撮られた「マラート(旧ペトロパヴロフスク)」。
1940年代に撮られた「オクチャブルスカヤ・レボルチャ(旧ガングート)」。

「ペトロパブロフスク」は1937年5月10日~6月5日にイギリスで行われた「ジョージ6世戴冠記念観艦式」にソ連海軍代表として参列した。第二次世界大戦開始時には「ガングート」「ペトロパブロフスク」はバルト海で、「セバストーポリ」は黒海でドイツ軍と闘ったが、基本的に沿岸海軍だったソ連海軍は艦隊戦などを行う技量はなく、艦砲射撃などの対地支援任務が主であった。なお、「ペトロパブロフスク」は艦名が「マラート」であった頃の1941年9月に爆撃を受けて艦首から割れて大破着底したが、後に艦後部のみ浮揚・修理されて砲術練習艦となり、海上砲台として大戦中を戦った。

大戦を生き残った残り2隻を含む3隻は練習艦に類別されて1950年代まで使用された。


  1. ^ ジェーン海軍年鑑に「1942年にガングートの旧名に復された」と言う誤記が記載されており、日本国内ではこのジェーン年鑑の誤記が長期間に渡って引用され続け、旧名復帰がなされたと多くの書籍に記されていた。






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