ガトリング‐ガン【Gatling gun】
読み方:がとりんぐがん
【ガトリングガン】(がとりんぐがん)
Gatling gun
機関砲の一形態で、複数束ねた砲身を回転させる事で弾丸の装填・発射・排出のサイクルを連続して行う仕組みのもの。
現存する機関砲の元祖ともいえるものであるが、基本的な設計思想は21世紀の今日でもなお現役である。
本砲は18世紀、アメリカの実業家リチャード・ジョーダン・ガトリング氏によって発明された。
ガトリング氏は医学に造詣が深く、戦死者の多くが病死であるという統計から強力な兵器を開発する事を思いついたという。
折しも時代は「労働者を工作機械に置き換えて人員削減・大量生産に移行する」事が奨励された工業化時代。
工場と同じ理屈で兵士を兵器に置き換えれば、動員される兵士数が減り、もって戦争を短期化する事が可能だと考えていたという。
当初のガトリング砲は6つの砲身をハンドルで回すもので、連射速度は毎分150~200発。
投射弾量は現代の機関銃の10分の1以下だが、当時の対人火器としては破格の対人制圧力を誇った。
しかし、「回すペースが一定でないとすぐに弾詰まりを起こす」という欠点を抱えていた。
現在では回転機構にモーターを噛ませて自動制御するモーターガトリングが一般的で、連射速度は劇的な進化を遂げている。
旧ソ連ではGSh-6-23などのガス圧式ガトリングガンも生産されたが、信頼性などの問題により現在は使用されていない。
砲身の回転運動によってブレが生じるため、その他の機関砲に比較して命中精度が低い。
またモーター駆動の場合、予備動作の関係で初弾を発射するまでに若干のタイムラグが生じる。
モーターを停止させる際も0.5秒ほど掛かるため、数十発の弾丸が未使用のまま弾倉に戻される。
反面、連射速度は現代の機関砲と比しても遥かに速く、特に高射砲やCIWSなど、高速で移動する目標を撃破する用途に適する。
回転機構にガス圧を利用しない為、不発弾が発生しても動作不良を起こさず信頼性が高い。
これらの特性から軍用機の固定武装として搭載される他、ヘリコプター・艦艇・車輌等の銃架に装備される事も多い。
関連:M61A1 バルカン M134 リボルバーカノン
ガトリング砲
(Gatling Gun から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 13:28 UTC 版)
ガトリング砲(ガトリングほう)、ガトリング銃(ガトリングじゅう)またはガトリングガンは、1861年にアメリカ合衆国の発明家リチャード・ジョーダン・ガトリングによって製品化された火器の一種。
- ^ 陸軍省大日記 日清戦役
明治27年9月12日至明治28年4月2日
「第1軍 戦闘詳報」
「分捕兵器弾薬取調明細表 名称 個数 七珊知米突克慮伯野砲 同山砲 小口径克慮伯式山砲 ガットリング@発砲 同蜂巣砲 七珊知米突野山砲榴弾 同榴発弾 同霰弾 小口径山砲榴弾 小口径山砲尖弾 火薬」 - ^ 『歴史を動かした兵器・武器の凄い話』149頁
- ^ 『河井継之助の生涯』、pp.175-176
- ^ 展示品紹介河井継之助記念館(2018.9.3アクセス)
- ^ 河井継之助福島県観光交流局観光交流課(2018.9.3アクセス)
- ^ 河井継之助 北越戦争で長岡城奪還 信念貫く武士道産経ニュース(2018年4月30日)-2018年9月26日閲覧
- ^ 『長岡歴史事典』、p.65
- ^ 「鈴木総之丞日記」慶応4年5朔日の條(『河井継之助伝、p.278』)
- ^ 『歴史への招待14』、pp.8-9、p.17、p.29
- ^ 単行書・処蕃始末・甲戌四月之一・第五冊
蕃地事務局 明治7年4月7日
「陸軍省御中 開拓使 カツトリンク砲二挺附属品トモ代価別紙ノ通リ洋銀七千七百二十五弗五十二セント外ニ右買入方ニ付御入費金十七円九十九銭洋銀十弗七十五セント相掛リ候儀ニ有之尤モ前書七千七百弗余ノ分ハ買上ケ約定致シ候マデ@テ未払出不相成候間御省ヘ御買相成候ハ丶直ニウオルスフオール商会ヘ御払下相成候様存シ候当使ヘ御差越候テモ差支無之候此段及御掛合候也 カツトリング砲二挺砲台大薬価付精算 一インチ弾丸カツトリング砲一挺并附属品 代価二千弗 四十二カリブル弾丸直径カツトリング砲一挺同断右十二函入 代価千五百弗 四十二カリブル針打銅製弾丸一万発 捨函 代価三百九十弗 〆三千八百九十弗 相場違ニ五分減 百九十四弗五十銭〜」単行書・処蕃始末・甲戌四月之三・第七冊
蕃地事務局 明治7年〜明治8年
「明治七年四月十七日横濱鈕育船ニテ結約 日本政府之名代トシテ同政府ノ為ニ極上品早合ガットリング炮実丸カリブル数十五万ガットリンク早合十万ヲ取寄ヘキ旨ヲシ、エ、ジファウルブラント商社一命シタリ早合之価ハ米國元価ニ船積料運送手数料并海上危険料ヲ加ヘ其上シエジファウルブラント商社ヘ口銭トシテ合価之五分ヲ与フヘシ 前記早合ハ非常事件アルノ外ハ約書調印之日ヨリ約ソ二ケ月之内横濱ニテ引渡スヘシ 前記早合注文スルニハ電信ヲ用フルニヨリ電信料ハ日本政府ニテ払戻スヘキ事 シエンファーウルブラント 大蔵卿大隈氏ノ命ニ因テ シダップリユリゼンドル 証人 イエムヒライ」 - ^ 陸軍省大日記 「大日記 砲工の部 3月木 陸軍省第1局」
陸軍省 明治10年3月4日
砲第九十八号 カットリング弐門以下福岡エ差送ノ儀ニ付伺 南ノ関出張先福原大佐ヨリ別紙ノ通電報有之候ニ付申越ノ通可差送候哉此段相伺候也 明治十年三月四日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理陸軍少将西郷従道殿 伺ノ通 但臼砲二門榴弾百発焼弾百発木管属具共並ニカットリング砲二門弾薬六千五百発至急送達可致事 三月五日陸軍省大日記 「大日記 砲兵工兵方面 5月木 陸軍省第1局」
陸軍大佐 大築尚志 明治10年5月 陸軍省
「陸第千百七十五号 甲第七十四号 至急砲弐百六十八号 大坂支廠ヨリ電報之儀ニ付伺 別紙之通昨夕大坂支廠ヨリ電報有之候ニ付当廠在庫品取調候処一舶用ブロートヱル属品共弐門一同弾信管共四百発一ガットリング車台属品共壱門同弾弐万発クルツプ榴弾信管共弐千発右之通有之候ニ付申越之通船便次第送方取計可申哉此段相伺候也 明治十年五月廿一日 砲兵本廠提理陸軍大佐大築尚志 陸軍卿殿代理 陸軍少将井田譲殿 追テ猶又只今別紙乙印之通ヱンヒール火門針及ヒ換壱門之儀モ申越候是又申越之通相送可申哉此段モ添テ申進候也 伺之通 五月〜」 - ^ 陸軍省大日記 密大日記 明治39年
内務次官 吉原三治 明治39年3月22日
陸軍省 内務省
「密受第一〇四号 内務省 ガツトリシグ機関砲弾藥貸与ノ件 砲密第七五号 回答 次官ヨリ内務次官ヘ 蕃界警備用トシテ半吋ガツトリング機関砲弾藥ヲ台湾総督府ヘ貸興ノ儀ニ付台甲第三一号照会ノ趣了承右ハ来意ノ通該弾藥二萬発ヲ兵器本工廠ヨリ同総督府ヘ送達セシメラレ候条承知相成度 兵器本廠ヘ達 半吋ガツトクング機関砲弾藥 右蕃界警備用トシテ台湾総督府ヘ支給方取計フヘシ 但本費ハ軍事費兵器弾藥費ヨリ仕拂フヘシ 密発第五九号 内務省台甲第二一号ノ内 客年十月二十六日付密発第八一号ヲ以台湾総督府ヘ御貸興相成度機関砲及同弾藥ノ内ガツトリング半吋十連機関砲ハ蕃界@@上日取適@ノモノヘ@ニ有之候処尚等貸与セラレタル同弾丸ハ弾ニ五千発ニ止マリ爾来@@上該砲使用スルニ@@弾丸ニ差支〜」 - ^ 陸軍省大日記 明治27年「秘27、8年戦役戦況及情報」
作成者名称 大本営 児玉少将 9月26日 陸軍省
「九月二十六日 九月二十四日午後三時十五分平壌発野津師団長ヨリ左ノ報アリ 平壌ニテ分捕ノ大砲四六門(四〇ノ誤ナラン)内克処普野砲四、山砲二六門ガットリング砲六、外ニ敵ノ案州ニ残シ置ケル野砲四門ヲ合シ〜」陸軍省大日記 明治35年「参大日記 1月」
砲兵会議議長有坂成章 明治35年1月9日
「参第七号 砲兵会議 ガツトリング機関砲下渡ノ件 大臣 総務長官 機密課長 主務課員 庶務課長 主務課局 決裁 参事官 主務局長 主務課長 主務課員 受領 一月十四日 結了 一月十五日 提出年月 明治 年十一月 日 立案局課番号 砲三第七号 連帯局長 連帯課長 立案局課ノ校合者 御指令案 伺之通 一月十五日 兵器監部ヘ御達案 一米国製口径十一密五 ガツトリング(有被筒)機関砲 一門 但戦利兵器第一次審査報告第二@表中第六項ノモノ 右砲兵会議ヘ下渡方取計フヘシ 陸軍省送達 送乙第四九号 一月十五日 参第七号」 - ^ 陳抜談、陳鐸記、伊藤秀一和訳『ニコラエフスクの回想』ロシア史研究23 (1975年)収録
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