日本共産党第6回全国協議会
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日本共産党 第6回全国協議会(にほんきょうさんとう だい6かいぜんこくきょうぎかい)は、1955年7月27~29日に行われた日本共産党がそれまでの中国革命に影響を受けた「農村から都市を包囲する」式の武装闘争方針の放棄を決議した会議である[1]。「六全協」(ろくぜんきょう)と略して呼ばれることも多い[1][注釈 1]。
注釈
- ^ 「六全協」の開催される2カ月前には、それまで在日朝鮮人運動を牽引してきた在日朝鮮統一民主戦線が解散し、在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が結成された[2]。在日朝鮮統一民主戦線は日本共産党と連携して合法・非合法の政治活動を展開した。非合法活動は祖国防衛隊が担当し、日本共産党の非合法組織(山村工作隊や中核自衛隊)と密接な協力関係にあった。「六全協」後、日本共産党に入党していた在日朝鮮人は一斉に党籍を離脱した[2]。
- ^ 「51年綱領」は、1951年10月の日本共産党第5回全国協議会(「五全協」)採択の「日本共産党の当面の要求-新しい綱領」。
- ^ 六全協は、のちの「議会闘争を通じて幅広い国民の支持を得られる党」へと作り変える一つの契機となったが、この時点では「農村から都市を包囲する」というそれまでの中国革命方式の武装闘争方針を放棄したのであって、暴力革命路線全般を完全に放棄したわけではない。事実、六全協の中では、武装闘争を本格的に開始するきっかけとなった「51年綱領」について、"新しい綱領が採用されてから後に起こったいろいろのできごとと、党の経験は、綱領にしめされているすべての規定が、完全に正しいことを実際に証明している。わが党の基本方針は依然として新しい綱領にもとづいて、日本民族の独立と平和を愛する民主日本を実現するために、すべての国民を団結させてたたかうことである"などとして評価され、引き続き綱領として堅持されていた[3]。
- ^ 山村工作隊などの活動に参加していた学生党員は、突然の路線転換に衝撃を受け、党を去った者も少なくない。あるいは、失意のうちに自殺した党員もいる。
- ^ 伊藤律の除名確認もここで決定された[1]。
出典
- ^ a b c d e f g h 『六全協』 - コトバンク
- ^ a b c 特定失踪者問題調査会特別調査班 (2022年2月1日). “小倉事件(日本における外事事件の歴史16)”. 調査会ニュース. 特定失踪者問題調査会. 2022年2月27日閲覧。
- ^ 『日本共産党用語事典』(2009)pp.8-10
- ^ 神山(1972)pp.140-141
- 1 日本共産党第6回全国協議会とは
- 2 日本共産党第6回全国協議会の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
6全協
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「全日本学生自治会総連合の歴史」の記事における「6全協」の解説
1955年7月27日、日共は第6回全国協議会(6全協)において軍事路線を自己批判したが、このことは軍事活動に命を懸け「革命は近い」と信じていた活動家たちにとって深刻な打撃を与えた。極左冒険主義とセクト主義の自己批判はなされたが、「右翼的政策路線」の総括はなされなかった。「大学の学問はブルジョワ的御用学問である」と言われ革命のために自分の将来への希望を捨て、命を懸けて武装闘争に励んでいた者が、急に「学生は理論で貢献しろ、学校へ帰れ」と言われたのである。学生党員の多くは新方針を受け止められず、大学に帰るもなじめず、献身的な者ほど悩み、ノイローゼになる者や自殺する者まで現れ(いわゆる六全協ノイローゼ)、自治会活動も沈滞することとなった。日共の方針転換を受けて全学連第7回中央委員会は「自治会サービス機関論」を規定し、その「7中委イズム」のもと「歌いたいというみんなの要求」「歌声は平和の力」を合言葉に歌と踊りのフェスティバルを路線化し(「歌ってマルクス踊ってレーニン」)、トイレに石鹸を備え付けるなどの「運動」を展開したが、多くの学生はこの方針に従わなかった。1956年の第9回大会は、学生運動の混迷を自己批判し、再び大衆的政治運動路線へと乗り出した。身近な要求を満たせという七中委イズムが批判され、平和擁護運動が前面に出され、「層としての学生運動」が階級闘争の一翼であると規定された。この大会では香山健一が委員長に選出され、後の「労学提携―先駆性理論」につながる「国民各層との提携―先駆的役割」の提起が行われた。この「8中委―9大会路線」(労学提携―同盟軍規定)は、層としての学生運動論を受け継ぎ、階級闘争の一翼としての学生運動の飛躍を目指すものであった。 この年第9回大会方針としての「原水爆実験反対、小選挙区制法案、教育三方粉砕」と共に取り組まれ、立ち直りの契機となったのが砂川基地反対闘争であった。第二次測量阻止のため9月に現地闘争本部を設置し、地元の農民や各種団体と共闘して「世界帝国主義の反動制作粉砕」に3000人もの幅広い学生が結集した。鳩山内閣は測量中止を声明せざるを得なくなり、全学連にとってレッドパージ闘争以来の勝利となった。6月3日の第10回大会は学生独自の大衆闘争路線を承認したものとなり、その後の闘争は前年を倍するものとなった。しかしながら、56年の砂川闘争の総括をめぐって指導部間で現地指導部の学生がイニシアチブを握って闘われたという意見と残留中執(高野秀夫、牧衷)の砂川闘争は極左冒険主義であり社会党に利用されたものであるが民主勢力の圧力や社会主義の優位が大きな力になったという意見とで二分した。両者の対立は「ジグザグデモかオンパレードか」「ストライキか授業放棄か」というような闘争戦術の細部に関する議論にまで発展することとなった。この対立が表面するしたところに、ハンガリー事件が発生、さらに12月にトロツキスト集団である日本革命的共産主義者同盟が発足して学生の共感を集め始めていた。このころの全学連活動家は必ずしも反ソ連ではなかったが、ソ連と東欧をめぐる情勢とそれによるソ連への不信は自立した運動を作り出す基盤となった。この間の、11月6日に発行した『全学連通信』では、10回大会で是認した共産党中央の「幅広闘争主義」(幅広イズム)に対して批判しており、全学連内での変化の前兆を見せていた。
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