19世紀から21世紀:「フランス国民国家」の創造
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フランス国民国家は1789年の フランス革命とナポレオン帝国によって形成された。それは王権神授説に依拠するフランスの古代王国からの脱却であった。エリック・ホブスボームなどの歴史家の説によれば、 フランス語は「フランス国家」という概念に不可欠であったにもかかわらず、フランス革命の時点で約半数のフランス人がフランス語を一切話さず、中央のオイル語圏ですら、都市部以外ではあまりフランス語が用いられていなかったという。ホブスボームはナポレオンが創設した徴兵制度、そして1880年代以降の大衆教育関連の法案が、さまざまな国内の集団を混淆し、統一国家の一員という自覚を持つ「フランス市民」を創出する上で大きな役割を果たしたと評価している。 1870年の 普仏戦争、そして短命に終わった1871年のパリ・コミューンは、フランス愛国心を強めるきっかけとなった。第一次世界大戦 (1914年-1918年)までは、フランスの政治家たちは、アルザス=ロレーヌ地方問題から目を離すことができなかった。そしてこの問題が、フランス国家の定義、そのままフランス国民の定義に深い影響を及ぼした。更にドレフュス事件により反ユダヤ主義が高まった。このような中で、王党派知識人のシャルル・モーラスは反議院内閣制を唱えるアクション・フランセーズの一員として、「反フランス」という言葉を造語した。これは共和制の「民族的出自や宗教的信念と無関係にあらゆるフランス市民を『フランス人』とする」という定義への、最初期の反対運動のひとつであった。 モーラスの「反フランス」という言葉は、カトリック教徒フランス人を、4つの「よそ者」の「同盟国」、すなわちユダヤ人、フリーメイソン、プロテスタント、そして「メトイコス」(métèques、移民など)に対立させたのである。 19世紀半ば頃、フランスでの産業革命が展開し始めた頃より、フランスの人口趨勢に変化が生じた。急速に産業発展を遂げるフランスには、次の100年間にヨーロッパ中、特にポーランド、ベルギー、ポルトガル、イタリアそしてスペインから何百万人もの移民が流れ込んだのである。 1960年代には、フランスへの移民第二波が起こった。これらの移民は第二次世界大戦以後の荒廃した国土再建のために必要であった建設事業を安価な労働力として支えた。フランス企業は、マグレブに安価な労働力を買い付けに赴き、フランスへの就労移民を促進したのである。これらの移民の定着は、 ジャック・シラクの1976年の「家族再会法」(regroupement familial)によって公的に進められた。これ以後、移民のあり方は多様化し続けているが、今ではフランスは他のヨーロッパ諸国に比べると、大きな移民受入国ではなくなっている。
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