食生活と菜食主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 15:00 UTC 版)
日蓮系教団では末法無戒を説くため菜食の必要は無いのだが、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年(大正7年)から5年間菜食生活をした。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、刺身や茶碗蒸しを少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている。東京でトシの看病をするため宿泊していた旅館「雲台館」では、賢治のため精進料理を出してくれたという。家出上京中は、芋と豆腐と油揚げばかり食べ、脚気になった時は、蕎麦がきや麦飯、冬瓜の汁を飲んだ。1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている。 農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と外食を楽しんだ。花巻の蕎麦屋「やぶ屋」を「ブッシュ」と呼び、よく通っていた。天ぷら蕎麦とサイダーを一緒に注文するのが定番だった。また鰻丼や天丼も好物だったという。自分から進んで酒を飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられると水でも飲むように飲み干して返盃した。時にたばこを吸うこともあった。また教員仲間が集まった時、藤原嘉藤治から「人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。」と問いかけられた答えとして『ビジテリアン大祭』を書いている。 羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。ご飯はまとめて炊いてザルに移して井戸の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。おかずは油揚げや漬物、トマトなどだった。賢治の体を心配した母のイチが小豆を入れたひっつみを届けたことがあるが、受け取らなかった。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、鶏卵も牛乳も拒否した。イチが鯉の生き肝が肺炎に効くと聞いて、オブラートに包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」「これからは決してそんなことをしてくれるな」と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた。
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