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ふじわら-のていし ふぢはら― 【藤原定子】
(977-1000) 一条天皇の皇后。道隆の女(むすめ)。990年入内。1000年藤原彰子が中宮にたったために皇后となり、一代二后の先例となった。定子に仕えた清少納言の「枕草子」にその才色が伝えられている。
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藤原定子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/09/06 22:01 UTC 版)
藤原 定子(ふじわら の ていし/さだこ[1]、貞元2年(977年) - 長保2年12月16日(1001年1月13日)[2])は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は「一条院皇后宮」。『枕草子』の作者清少納言が仕えた女性である。
- ^ 『平安時代史事典』
- ^ 享年は同時代の公卿藤原行成の日記『権記』による(『大鏡裏書』『一代要記』は入内の時14歳とするため『権記』の記す享年24と符合する)。『日本紀略』『扶桑略記』『栄花物語』は25とする。
- ^ 一条天皇の元服は同年正月5日。貴人の元服の夜には添臥とよばれる女性が参上し、そのまま正妻となることが多かった。定子も添臥であった可能性が高い。
- ^ 『栄花物語』は定子の立后を6月1日とし、それが彼女の祖父兼家の病中であったにもかかわらず、外戚の高階氏が道隆を唆して立后を強行させたため、世の非難を浴びたという。だが、実際には定子立后は10月5日で兼家の死後数カ月経っており、『栄花』の説は妥当でない。
- ^ 『栄花物語』も、一条天皇の言葉として「心ばへのおとなおとなしうあはれなる方は誰かまさらむ」(思慮分別があってしみじみと情け深い点では、彼女に勝る人はいるのだろうか)の定子評を伝えている。
- ^ 『枕草子』
- ^ 大江匡衡は、長保元年(999年)6月14日の内裏焼亡後、「白馬寺の尼、宮に入りて唐祚亡びし由あり、皇后の入内を思ふに、内の火の事は旧事を引けるか」と藤原行成に語り、中宮定子を唐を滅亡させた高宗の悪妻則天武后になぞらえ、彼女が出家の身で後宮に入ったから内裏が焼けたのだとして痛烈に非難した(『権記』長保元年8月18日条)。また藤原実資は、皇子出産に際し中宮定子を「横川の皮仙」、すなわち「出家らしからぬ出家」と皮肉っている(『小右記』長保元年11月7日条)。
- ^ 『権記』『御堂関白記』その他
- ^ しかし、『大日本史』が載せる一条天皇の詔には、脩子内親王が宮中で育ったと書かれ、『栄花物語』にもそのように思える節があるため、再考が必要。
[続きの解説]
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