長登銅山跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 長登銅山跡の意味・解説 

長登銅山跡

名称: 長登銅山跡
ふりがな ながのぼりどうざんあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 山口県
市区町村 美祢市
管理団体
指定年月日 2003.07.25(平成15.07.25)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 長登銅山跡は、山口県のほぼ中央国定公園秋吉台東南麓に位置する。この地に は,東西1.6km、南北2kmの範囲内奈良時代から昭和期にかけての多数、 コバルト孔雀石鉄鉱石等の採鉱跡や精錬所跡が知られているが、大切谷呼ばれ る小谷とその周囲斜面地には古代採鉱跡・精錬所遺跡など所在するととも に大量精錬滓(からみ)が堆積している。
 長登には、「奈良の大仏献上したので、奈良登と呼ばれていたのものが、訛 って長登になった」という地名伝説があったが、昭和47年町史編纂のための調査 で、奈良時代後半土器とからみが採集されたことを契機に、美東町教育委員会によ る調査開始された。平成10年度までに、多次にわたる分布調査発掘調査が行な われ、遺跡範囲内容確認されることとなった。さらに、昭和63年には,奈良 東大寺出土大仏建立時の青銅塊の理化学分析が行なわれ、長登銅山であること が判明した
 銅山跡の中心的位置にある大切精錬遺跡は、大切谷内の小丘陵状に整地し、そ こに、利用した選鉱作業場や一3m方形区画中心に炉を設置した精錬作業 場大溝暗渠排水溝、柵などを設けたもので、のほか、鉛などの生産・管理等に あたったものと推定される出土遺物も豊富で、土器類のほか、要石石槌から み、炉壁片、羽口坩堝・鉛の小片銅鉱石等の精錬関係遺物や、800余り の木簡多量木製品自然遺物なども出土している。出土遺物分析から、遺跡は 主に8世紀初頭から11世紀にかけてのもので、時代が下るにつれての上手に移動 していることが判明したまた、木簡は、銅インゴットや炭に関するものや、塩や米 の運搬支給関連するものなど、多岐内容わたっており、律令国家による長登 銅山運営・管理古代生産技術各地との関係などを示している。さらに、大 切谷の奥に所在する葉山標高341m)の山頂から南斜面にかけては、30ヶ 所以上の採掘坑口跡が確認されている。これらの採掘坑は、鉱脈追って掘り進 まれ蟻の巣になっており、複数坑口つながっている。坑内では、奈良時代前 半須恵器原位置発見され採掘活動それまで遡ることが判明した。このほか、 大切谷その周辺地には、平安中期山神精錬遺跡江戸期全国名を馳せた顔料、 瀧ノ下緑青原料である孔雀石採鉱跡、大正8年廃業花の山精錬所跡などが存在 する
 以上のように、長登銅山跡は、日本最古銅山跡であり、古代鉱山採掘・ 生産技術律令国家による銅山経営実態具体的に示すとともに奈良東大寺の大 仏建立など、国家的な事業に密接に関連した遺跡である。また、鉱業中心に展開し てきたこの地域古代から近代にかけての変遷をよく示している。よって史跡指定 し保護図ろうとするものである

長登銅山

(長登銅山跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 14:28 UTC 版)

長登銅山(ながのぼりどうざん)は、山口県美祢市秋吉台南東に隣接する鉱山。長登銅山では7世紀末ないし8世紀初頭から銅を中心とした鉱物の採掘が始まり、特に奈良時代には東大寺の大仏に使われた銅の産地であった可能性が高いことで名高い。その後も1960年(昭和35年)の閉山まで断続的に操業が続けられた。


注釈

  1. ^ 村上(1998)によれば、スカルン鉱床以外の層状銅鉱床は、鉱床内に黄銅鉱が細かい粒状になって存在するため酸化作用を受けにくく、自然銅や酸化銅系、炭酸銅系といった二次富化鉱物を主体とした鉱床は生成しにくい。
  2. ^ 神崎、佐々木(2009)では、長登銅山で製錬されたと考えられる銅地金と、長登銅山と同じ時期に稼動していたと考えられる北九州市の尾崎遺跡から検出された銅の成分などから、銅の精製の技術は生産地でも存在していたと考えられ、中央政府には品質が劣る銅を送付し、良質な銅は横流ししていた可能性を指摘している。
  3. ^ 長登銅山のスラグと東大寺大仏殿西廻廊からの青銅の分析結果は、砒素の含有量や鉛の同位体比が良く一致していて、また長登銅山からは奈良時代の採掘・製錬跡が検出され、長門国直営という公営鉱山であったことも明らかであるため、東大寺の大仏が長登銅山の銅を用いた可能性はきわめて高いことは明らかであるが、一般的に石灰石地帯に存在するスカルン鉱床では銅鉱石に砒素の含有量が多い傾向があり、長登銅山の銅が東大寺の大仏に用いられたという決定的証拠はまだ見つかっていない。(「美東町史 通史編」(2004)p.83)
  4. ^ 砒素を成分に含む「砒素青銅」は融点が低くかつ製品の仕上がりが良いため、砒素を意図的に加えた可能性も指摘されていたが、成瀬(2001)によれば、正倉院宝物と同時期の興福寺、法華寺の記録には銅器製造の材料と成分配合比が遺されており、それによると砒素を加えた記録は認められず、砒素は銅にもともと混入していた可能性が高いとする。
  5. ^ 検出された木簡の中で最も古いものは和銅四年のものと考えられているが、橋本(2005)によれば、現状では年号部分の文字が判読しがたく、また、これまで長登銅山から検出された木簡は郷里制の施行時期のものと考えられる上に、他の年号記載の木簡と比べて15年余り古いなど、資料として疑問があるとする
  6. ^ 時代は下って9世紀になるが、長登銅山のことを指すと考えられる「採長門国銅使」の報告では、人々が銅山で就労することを避けているとの報告がなされている。(八木(1993)、p.242)
  7. ^ 新井(2008)は、酸化銅系の鉱石しか処理できなかった古代の技術では、絶対量が乏しい酸化銅の鉱石の枯渇を招き、銅の生産量が落ち込んだとする。
  8. ^ 神崎(2006)によると、硫化鉱の不純物は強酸性のため周囲の粘土質と結合しやすく、鉱石内の粘土質ばかりでなく炉の粘土質とも結合する。その上、硫化鉱の製錬は発熱反応を伴い、炉内の温度も上昇するために結果として炉の崩壊が起きやすくなる。
  9. ^ 鉄が成分中に含まれている黄銅鉱が主要鉱物である硫化銅鉱石の製錬では銅に鉄が混入しにくく、反対に酸化銅系の鉱石の製錬では銅の中に鉄が混入しやすいというのは一見矛盾しているようであるが、吉川他(2006)、植田(2006)、新井(2008)によると、これは製錬の過程で硫化銅の場合は鉄が不純物として除去されていくのに対して、酸化銅の製錬では硫黄と結びついた銅が鉄分を取り込んでしまうことによる。
  10. ^ 吉川ら(2006)によれば、銅の砒酸塩を含有した褐鉄鉱は、酸化銅鉱石を融解する際に、鉄分を加えることによって融点を下げる溶融剤としての目的とともに、銅を含有していることから銅鉱石としても利用したものと推定している。
  11. ^ 同じ硫化物の製錬であるが、硫化鉛は硫化銅と比較して製錬が容易である。(新井(2008)p.51)
  12. ^ 神崎(2006)によると、同様の理由で尾小屋鉱山、生野鉱山などでも吹床製錬法の製錬所が昭和初年まで操業していた。

出典

  1. ^ 国指定文化財等データベース 長登銅山跡
  2. ^ 山口県文化財要録 長登銅山跡出土木簡
  3. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.1、池田「位置と環境」(1998)p.1
  4. ^ 美東町史編さん委員会「美里町史 資料編」(2004)p.137
  5. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.1
  6. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)pp.2-5
  7. ^ 池田「遺跡の位置と環境」(1993)p.5
  8. ^ 今村、飯泉(2009)pp.15-16、渡辺(2009)pp.449-453
  9. ^ 村上(1998)pp.18-19、神崎(2006)pp.24-26
  10. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.8、渡辺(2009)p.453
  11. ^ 池田(1995)p.2
  12. ^ 五十川(2009)p.177
  13. ^ 村上(1998)pp.18-19、神崎(2006)pp.24-25、吉川他(2006)p.6
  14. ^ 吉川他(2006)p.6
  15. ^ 井澤(2006)pp.19-21
  16. ^ 村上(1998)pp.18-19、神崎(2006)pp.24-25
  17. ^ 吉川他(2006)pp.5-17、井澤(2006)pp.21-23
  18. ^ 池田(1990)pp.6-9村上(1998)p.21
  19. ^ 村上(1998)p.19、渡辺(2009)pp.449-456
  20. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.17
  21. ^ 池田「昭和50年度大切地区の試掘調査」(1990)p.19
  22. ^ 池田「昭和59年度山神精錬遺跡の発掘調査」(1990)p.19
  23. ^ 池田「昭和60年度大切精錬遺跡清掃調査」(1990)pp.33-39
  24. ^ 池田「昭和63年度大切精錬遺跡発掘調査」(1990)pp.40-42
  25. ^ 池田「調査の経過」(1998)p.3、森田(2001)pp.128-135
  26. ^ 美祢市長登銅山文化交流館
  27. ^ 巽(2001)p.95
  28. ^ 池田「位置と環境」(1998)p.2、神崎、佐々木(2009)p.134
  29. ^ 葉賀、佐々木(1998)p.14、池田「位置と環境」(1998)p.2、岩崎(2001)pp.141-146、神崎(2006)p.37、神崎、佐々木(2009)p.134
  30. ^ 八木(2001)pp.6-7、巽(2001)p.95、岩崎(2001)p.142
  31. ^ 神崎(2006)p.37
  32. ^ 畑中(1993)pp.197-200、畑中(1998)p.42
  33. ^ 池田(1995)p.11、橋本(2005)pp.252-253
  34. ^ 巽(2001)pp.95-97
  35. ^ 池田(1993)pp.143-148
  36. ^ 池田「古代銅製錬の実態と若干の問題点」(1993)pp.216-217、佐藤(2003)pp.185-186
  37. ^ a b 橋本(2005)p.253
  38. ^ 池田(1998)pp.57-58
  39. ^ 佐藤(2003)pp.187-188、神崎(2006)pp.58-59
  40. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.82-83、橋本(2005)pp.255-256
  41. ^ a b 池田(1995)p.15、佐藤(2002)pp.194-195
  42. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.82
  43. ^ 八木(1993)p.234、神崎(2006)p.41、新井(2008)p.258、神崎、佐々木(2009)、p.134
  44. ^ 成瀬(1998)pp.29-31、40、成瀬(2001)pp.101-104、佐藤(2005)p.250
  45. ^ 橋本(2005)pp.265-266
  46. ^ 畑中(2003)pp.224-226、橋本(2005)pp.275-277
  47. ^ 橋本(2005)pp.254-255
  48. ^ 池田「調査の成果」(1993)p.111、橋本(2005)p.254
  49. ^ 橋本(2005)p.255
  50. ^ 佐藤(2003)p.182
  51. ^ 八木(1993)p.236、美東町史編さん委員会「美里町史 通史編」(2004)、p.78
  52. ^ 八木(2000)p.14
  53. ^ 橋本(2005)p.261、竹内(2007)pp.463-464
  54. ^ 佐藤(2002)pp.197-198、竹内(2007)pp.464-465
  55. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.81、竹内(2007)p.465
  56. ^ 畑中(2003)p.227、橋本(2005)pp.260-262
  57. ^ 橋本(2005)p.262
  58. ^ 八木(1993)pp.240-241
  59. ^ 八木(1993)p.237、橋本(2005)pp.262-263
  60. ^ 八木(1993)p.235、八木(2000)pp.5-7、畑中(2003)pp.213-214
  61. ^ 八木(1993)pp.240-241、橋本(2005)pp.264-265
  62. ^ 橋本(2005)p.260
  63. ^ 竹内(2007)pp.467-470、pp.352-358、竹内(2010)pp.352-358
  64. ^ 八木(1993)pp.238-240、八木(2000)p.5-10、巽(2001)pp.95-97、佐藤(2003)pp.184-185、櫛木(2004)p.137、橋本(2005)pp.263-264、竹内(2007)pp.467-470
  65. ^ 佐藤(2003)p.187
  66. ^ 八木(2000)p.5、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.85
  67. ^ 八木(1993)p.235、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.85
  68. ^ 佐藤(2003)p.187、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.85-86
  69. ^ 成瀬(2001)p.106、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.86-87
  70. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.86
  71. ^ 佐藤(2003)p.187、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.87
  72. ^ 池田「昭和59年度山神製錬遺跡の発掘調査」(1990)pp.30-32、神崎(2006)pp.58-59
  73. ^ 池田「調査の成果」(1993)pp.147-148、神崎(2006)p.56、神崎・佐々木(2009)p.135
  74. ^ 池田(2001)pp.43-44
  75. ^ 池田「調査の成果」(1993)pp.144-148、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」p.74、神崎(2006)p.56
  76. ^ 池田「考察」(1993)pp.205-206、神崎(2006)p.56
  77. ^ 池田「考察」(1993)p.206、神崎(2006)p.56
  78. ^ 池田(1995)p.9、神崎(2006)p.57
  79. ^ 池田(1995)p.9、神崎(2006)p.57、神崎・佐々木(2009)pp.135-136
  80. ^ a b 池田「調査の成果」(1993)pp.52-55、池田(1998)p.29、神崎(2006)pp.57-58、神崎・佐々木(2009)pp.135-136
  81. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.79
  82. ^ 神崎(2006)pp.58-65、神崎・佐々木(2009)p.137
  83. ^ 池田(1995)p.10、神崎(2006)p.73、神崎・佐々木(2009)pp.138-140
  84. ^ 池田「古代銅精錬の実態と若干の問題点」(1993)pp.211-215、池田(1995)p.10
  85. ^ 神崎(2006)pp.65-72、神崎・佐々木(2009)pp.144-148
  86. ^ 神崎(2006)pp.75-77
  87. ^ 池田「考察」(1993)p.206
  88. ^ 久野(1993)p.178、神崎(2006)p.73、神崎、佐々木(2009)pp.137-138
  89. ^ 新井(2008)p.259
  90. ^ 神崎(2006)pp.83-85
  91. ^ 新井(2008)p.260
  92. ^ 吉川ら(2006)pp.14-17、植田「銅の生産、古代から現代」(2006)pp.24-28、植田「古代長登銅山における製錬法の復元実験」(2006)pp.38-40、新井(2008)pp.259-260
  93. ^ 吉川他(2006)pp5-10、植田「銅の生産、古代から現代」(2006)p.24、植田「古代長登銅山における製錬法の復元実験」(2006)pp.40-41
  94. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)、pp.76-78
  95. ^ 吉川他(2006)p.16
  96. ^ 池田(1998)pp.56-57、神崎(2006)p.148、神崎、佐々木(2009)p.152
  97. ^ 池田「まとめ」(1998)pp.56-57
  98. ^ 植田「古代長登銅山における製錬法の復元実験」(2006)p.42
  99. ^ 池田「まとめ」(1998)p.56
  100. ^ 池田「まとめ」(1998)p.57
  101. ^ 池田(1990)p.15、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.201
  102. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.16、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.201-203
  103. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.16、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.205
  104. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.16、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.205-206
  105. ^ 森田(2005)p.8
  106. ^ 井澤(2005)pp.83-92、「齋藤努・高橋照彦・西川裕一 『近世銭貨に関する理化学的研究』 日本銀行金融研究所、2000年、日本銀行金融研究所ディスカッション・ペーパー
  107. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.206-211
  108. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.211-213
  109. ^ 美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.213-214
  110. ^ 神崎(2006)p.150、神崎、佐々木(2009)p.158
  111. ^ 鶴田(2001)pp.116-117
  112. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.17、鶴田(2001)pp.117-118
  113. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.17、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」pp.210-211
  114. ^ 鶴田(2001)pp.118-121
  115. ^ 池田「調査の成果」(1993)p.144
  116. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)pp.17-18、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)pp.387-388
  117. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.18、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.388
  118. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.18、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.388、美東町史編さん委員会「美東町史 資料編」p.170
  119. ^ 池田「長登銅山跡の位置と概要」(1990)p.18、美東町史編さん委員会「美東町史 通史編」(2004)p.388、美東町史編さん委員会「美東町史 資料編」pp.156-157
  120. ^ 神崎(2006)p.50
  121. ^ 池田(1995)p.5、美東町史編さん委員会「美東町史 資料編」pp.149-150、神崎(2006)p.50




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「長登銅山跡」の関連用語

長登銅山跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



長登銅山跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2024 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの長登銅山 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS