長登銅山
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注釈
- ^ 村上(1998)によれば、スカルン鉱床以外の層状銅鉱床は、鉱床内に黄銅鉱が細かい粒状になって存在するため酸化作用を受けにくく、自然銅や酸化銅系、炭酸銅系といった二次富化鉱物を主体とした鉱床は生成しにくい。
- ^ 神崎、佐々木(2009)では、長登銅山で製錬されたと考えられる銅地金と、長登銅山と同じ時期に稼動していたと考えられる北九州市の尾崎遺跡から検出された銅の成分などから、銅の精製の技術は生産地でも存在していたと考えられ、中央政府には品質が劣る銅を送付し、良質な銅は横流ししていた可能性を指摘している。
- ^ 長登銅山のスラグと東大寺大仏殿西廻廊からの青銅の分析結果は、砒素の含有量や鉛の同位体比が良く一致していて、また長登銅山からは奈良時代の採掘・製錬跡が検出され、長門国直営という公営鉱山であったことも明らかであるため、東大寺の大仏が長登銅山の銅を用いた可能性はきわめて高いことは明らかであるが、一般的に石灰石地帯に存在するスカルン鉱床では銅鉱石に砒素の含有量が多い傾向があり、長登銅山の銅が東大寺の大仏に用いられたという決定的証拠はまだ見つかっていない。(「美東町史 通史編」(2004)p.83)
- ^ 砒素を成分に含む「砒素青銅」は融点が低くかつ製品の仕上がりが良いため、砒素を意図的に加えた可能性も指摘されていたが、成瀬(2001)によれば、正倉院宝物と同時期の興福寺、法華寺の記録には銅器製造の材料と成分配合比が遺されており、それによると砒素を加えた記録は認められず、砒素は銅にもともと混入していた可能性が高いとする。
- ^ 検出された木簡の中で最も古いものは和銅四年のものと考えられているが、橋本(2005)によれば、現状では年号部分の文字が判読しがたく、また、これまで長登銅山から検出された木簡は郷里制の施行時期のものと考えられる上に、他の年号記載の木簡と比べて15年余り古いなど、資料として疑問があるとする
- ^ 時代は下って9世紀になるが、長登銅山のことを指すと考えられる「採長門国銅使」の報告では、人々が銅山で就労することを避けているとの報告がなされている。(八木(1993)、p.242)
- ^ 新井(2008)は、酸化銅系の鉱石しか処理できなかった古代の技術では、絶対量が乏しい酸化銅の鉱石の枯渇を招き、銅の生産量が落ち込んだとする。
- ^ 神崎(2006)によると、硫化鉱の不純物は強酸性のため周囲の粘土質と結合しやすく、鉱石内の粘土質ばかりでなく炉の粘土質とも結合する。その上、硫化鉱の製錬は発熱反応を伴い、炉内の温度も上昇するために結果として炉の崩壊が起きやすくなる。
- ^ 鉄が成分中に含まれている黄銅鉱が主要鉱物である硫化銅鉱石の製錬では銅に鉄が混入しにくく、反対に酸化銅系の鉱石の製錬では銅の中に鉄が混入しやすいというのは一見矛盾しているようであるが、吉川他(2006)、植田(2006)、新井(2008)によると、これは製錬の過程で硫化銅の場合は鉄が不純物として除去されていくのに対して、酸化銅の製錬では硫黄と結びついた銅が鉄分を取り込んでしまうことによる。
- ^ 吉川ら(2006)によれば、銅の砒酸塩を含有した褐鉄鉱は、酸化銅鉱石を融解する際に、鉄分を加えることによって融点を下げる溶融剤としての目的とともに、銅を含有していることから銅鉱石としても利用したものと推定している。
- ^ 同じ硫化物の製錬であるが、硫化鉛は硫化銅と比較して製錬が容易である。(新井(2008)p.51)
- ^ 神崎(2006)によると、同様の理由で尾小屋鉱山、生野鉱山などでも吹床製錬法の製錬所が昭和初年まで操業していた。
出典
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