通字と元服時の名前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:58 UTC 版)
毛利家では、元服時に通字である「元」(もと)のついた名(諱)を名乗るのが慣例となっていた(家祖である大江広元にちなむ)。家督継承者(当主となる嫡子)は山名氏・大内氏・豊臣家・将軍家(足利・徳川)など有力者の偏諱を受け「○元」(山名時熙の偏諱を受けた熙元、山名是豊の偏諱を受けた豊元、大内政弘の偏諱を受けた弘元、大内義興の偏諱を受けた興元、大内義隆の偏諱を受けた隆元、室町幕府第13代将軍足利義輝の偏諱を受けた輝元)と名乗り、次男以降は当主となった兄から偏諱(元の1字)を受ける形で「元○」(兄興元の偏諱を受けた元就、兄隆元の偏諱を受けた吉川元春など)と名乗った。輝元の従弟にあたる毛利秀元も一時期輝元の養嗣子であったため「○元」の名乗り方で元服し、豊臣秀吉の偏諱を受けた。その後、輝元には秀元に代わって世子となる実子の秀就が生まれ、豊臣秀頼の偏諱を受けたが、秀元と名乗りの重複を避けるため元就の1字を取っている。また、豊臣政権時代は豊臣の氏・羽柴の名字をともに賜った。 秀就の子・綱広以降の江戸時代には偏諱を受ける相手は徳川将軍となり(称松平・賜偏諱の家格とされた)、世子は元服時に将軍の偏諱(○)を受け、「○元」などと名乗る習わしとなったが、秀就をきっかけに「○元」と名乗る慣例は崩れ、他に「○広」「○就」「○房」「○親」「○熙」など祖先にちなむ字を使用するケースもみられるようになった。ところが幕末には、13代長州藩主慶親(67代)と世子定広(68代)が、禁門の変の処分としてそれぞれ慶・定の字(徳川家慶・家定からの偏諱)を剥奪の上、敬親・広封と改名させられた(広封は明治維新後に元徳と改名)。 大政奉還後、華族最高位の公爵を授爵された毛利氏は、身分的に徳川氏の風下に立つことはなくなり、誰からも偏諱を受けることはなくなった。また、明治5年太政官布告149号(通称実名併称禁止)により毛利家においては諱を名乗ることとなり、同年太政官布告235号(改称禁止令)により出生時の命名が基本となり、元服時に新たに名を付けることは禁止された。以後歴代、出生時に(元)を頭に据え「元○」の形で名づけることとなった。
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