赤字経営時代(平田紡績の消滅)
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「平田紡績」の記事における「赤字経営時代(平田紡績の消滅)」の解説
宗村佐信が逝去した後、長男の宗村完治が後継の社長となった。富洲原漁網工場の半分を富洲園団地として分譲する不動産売却を断行したが、働き盛りで逝去した。弟の宗村明夫が社長となり、宗村家が世襲で経営者となっていた。不動産会社だった地産グループ総帥の、竹井博友は不動産投資のために平田紡績を乗っ取る形で、株式の大量購入で買収して、宗村家から竹井家が経営者となった。 平田紡績は創業100年以上の伝統がある漁網会社であった。紡績事業から漁網の製造と販売を行い、不動産事業や海外生産をする繊維業の総合企業であり、製網業界では、平田紡績は名門企業であった。しかし、四日市ぜんそく(四日市公害)によって伊勢湾の水質が汚染されて、魚の捕獲量が激減した。国道23号線の建設によって、平田紡績の漁網を大量購入していた富田地区と富洲原地区の海岸線が埋め立てられて富田漁港と富洲原漁港で盛んだった伊勢湾の漁業が衰退した。また、四日市港を拡大する工事で埋め立て地が造成されて、伊勢湾地域全体で盛んだった漁業が衰退した。以上の事情から、平田紡績へ漁網を購入する需要が減少して、平田紡績は赤字企業となっていて株価が低迷して買収が実施しやすくなっていた。 1986年(昭和61年)4月に、東京都を中心とする企業経営者で関東地方出身者の竹井博友は平田紡績の歴史や四日市市の地域事情を詳しく知らない経営者であったが、不動産関係の企業情報を入手した事から平田紡績に注目した。竹井博友は漁網の大手メーカーであった平田紡績にM&Aを仕掛けて、1980年(昭和55年)頃から平田紡績の株式の買占めを開始して、1986年(昭和61年)に地産グループの傘下に取り込むとともに、株価を1040円まで急騰させた。社名をヒラボウと改称して、昭和時代の上場企業としての位置は漁網製造などの工業分野だったが、平成時代の上場位置は商業分野で、不動産部門中心の企業から投資事業に進出した。竹井による株式の大量買収によって資本金が24億849万円に増資された。平田紡績の株価は急上昇して、平田紡績は竹井が経営する企業となり地産グループに入った。竹井の地産グループは、不動産事業を重視していて、赤字となっていた製網業と紡績業などの繊維事業を守る気が無かった。平田紡績の四日市工場の用地を不動産として売却を行い、名古屋圏であり名古屋近郊として注目した四日市市の富洲原を大規模開発をして、32階建てリゾートタワーマンションとスポーツジムを建設する構想ができた。バブル期に竹井が経営する地産グループは富洲原から名古屋へ通勤と通学が可能である事を知り名古屋圏で最適なベッドタウンとして富洲原を注目した。富洲原の平田紡績跡地に巨大な新興リゾート高層マンション団地を建設する不動産事業を考えた。 竹井博友の地産グループは元々ゴルフ場開発を手掛けていた企業でバブル経済の株式投資と土地投資が華やかりし好景気の時代に派手な買収劇で世間の注目を集めた。1986年(昭和61年)1月に名門ハムメーカーのローマイヤを買収した。1986年(昭和61年)4月には債務超過だった平田紡績(現在のオークキャピタル)を買収した。地産グループの総帥竹井博友の指導下、地産グループは、電機メーカーの岩崎電気株式会社や、洋菓子メーカーのモロゾフなどの株式にも手を広げて、「地産グループと竹井個人の株式投資額は1000億円に達する」とも言われた。しかし、バブル崩壊期の1991年(平成3年)6月に、国際航業の株式を売買する株取引(光進事件)で獲得した55億円の利益を隠した脱税容疑で、東京地検特捜部に33億円の所得税法違反の罪で竹井博友が逮捕されたことなどで、地産グループの企業経営は坂道を転げ落ちるように悪化した。 1986年(昭和61年)10月に、四日市市富洲原地区の紡績工場を閉鎖した。 1987年(昭和62年)2月に、ヒラボウ株式会社と改称した。本社を東京都中央区築地に移転した。 1987年(昭和62年)4月に、製網事業や紡績など繊維事業以外の以下の事業部を新設した。 不動産事業部 パン事業部(富洲原の平田紡績跡地にモンタボーのパン屋が開店した) コーヒー事業部 1987年(昭和62年)6月に、四日市漁網工場を閉鎖した。幕末に平田商店として創業した伝統的な企業が平田紡績であった。平田商店が創業して以来の平田家の家業であり続けて、平田製網として発展した漁網工場を別会社化する。福島県耶麻郡山都町(現在の喜多方市)に魚を養殖する養魚場を建設した。 1987年(昭和62年)9月に、函館漁網工場を閉鎖した。函館漁網工場を別会社化して製網と紡績の製造事業を中止した。 1988年(昭和63年)、会社組織を従来のヒラボウの組織の以下の事業本部と事業部があったが新しく組織変更する事となった。 海洋資材事業本部 食品・貿易事業本部 不動産事業部(地産グループが平田紡績の不動産事業を買収してヒラボウ不動産事業部とした。平田紡績の不動産事業として地産グループによって天ヶ須賀や首都圏でヒラボウマンションが建設された) 2事業本部と1業部体制を大幅改組をして、以下の体制となった。 海洋資材事業本部 食品・貿易事業本部 不動産事業本部(不動産事業本部へ昇格させた) パン事業部(天ヶ須賀の平田紡績跡地にモンタボー四日市富洲原店を出店させるなどパンと関係が深い食品パン事業部を創設した。食品・貿易事業本部から分離独立させた) コーヒー事業部(食品・貿易事業本部から分離独立させた) 3事業本部と2事業部体制となる。 1989年(平成元年)に、八戸漁網工場を閉鎖して、別会社化する。 工場跡地に、バブル期地産グループの東海地方一の高層マンション計画ができるがバブル崩壊で計画が中止されて、1978年(昭和53年)に四日市市富洲原地区(天ヵ須賀本町の漁網工場と紡績工場の生産を減少させて、工場用地の規模を縮小する不動産事業)を宗村完治社長によって平田紡績の赤字体質を改善するために、四日市工場用地の半分を富洲園団地として不動産売却したのに続き、最終的には、残りの平田紡績工場の跡地を平成12年(2000年)に新興住宅団地として開発した自治会の以下の用地として売却した。 GS富洲原 LM富洲原マンション これらの新しい新興住宅地として分譲する不動産売却を実施した。 平田紡績は社名を変更した後、漁網製造と繊維産業など紡績業とは別事業を行っている。ヒラボウを経て現在の社名はOakキャピタルである。三重郡川越町の高松地区に近鉄が平田漁網(平田紡績株式会社→現在の社名はOakを英語社名とするオークキャピタル)の土地を借用して運動場を開設した。近鉄富洲原球場に平田紡績は土地を提供した。
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