計画から発足までとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 計画から発足までの意味・解説 

計画から発足まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:20 UTC 版)

金沢電気瓦斯」の記事における「計画から発足まで」の解説

1893年明治26年10月金沢市内の「戎座」にて、小型発電機によって電灯ともされた。これは歌舞伎役者実川勇次郎一座が行った演劇用いられたもので、名古屋市4年前に開業していた名古屋電灯出張点火事業利用していた。これが石川県のみならず北陸地方最初電灯点灯事例とされる。翌1894年明治27年)には、東京電灯技師5月富山市続いて設備携えて金沢市訪れ7月から8月にかけて開催され第5回関西府県連合共進会会場兼六園尾山神社)にてアーク灯電灯点火した共進会会場での点灯費用当時の「金沢電灯発起人と市ならびに県が3分の1ずつ負担していた。この「金沢電灯」というのは、江戸時代から続く菓子商「森八」の当主12森下八左衛門らが計画していた会社である。1893年6月6日に県に対し火力発電による電灯供給事業出願し同年9月8日にその認可得ていた。認可後、11月火力発電ではなく水力発電電源とする方針転換犀川から取水する寺津用水での発電所建設取り決めたこうした準備の中での共進会での点灯事業宣伝の意味があったとみられるが、1894年9月日清戦争その他の影響事業中止決まった。 「金沢電灯頓挫一方で、旧加賀藩士族殖産興業政策積極であった当時金沢市長長谷川準也は市営による電気事業企画していた。そもそも森下らの電灯事業発起長谷川示唆よるものと言われ事業中止についても長谷川介入があったためとみられる長谷川16燭灯の電灯1000灯と工場電力60馬力需要見込まれる主張し技術的に金沢電灯発電所計画踏襲した市営発電所案を金沢市会に提出する審議1894年11月より始まり東京電灯技師長藤市助招いた調査結果電灯60馬力16燭灯1000灯)・動力用540馬力合計600馬力すなわち400キロワット規模拡大するのが適当で、発電機についても最新三相交流発電機輸入すべきと結論付けられ1895年明治28年7月10日600馬力市営発電所建設事業費15万円市債起債市会可決された。 金沢市は翌1896年明治29年3月内務省大蔵省から起債許可取得し同年7月13日には市内供給区域とする電気供給事業経営許可逓信省より得た。こうして事業準備が進むものの、日清戦争後物価高騰15万円では起業できなくなった市会では起債額を225000円とする案が審議されたものの民営論が強くなり、1897年明治30年5月31日市会従来の関係から森下八左衛門らに計画任せると決定した同年11月4日森下八左衛門ら「金沢電気発起人への事業継承認可される。しかし会社設立1年ずれ込み1898年明治31年11月22日にようやく創業総会開かれ12月28日農商務省設立免許下りて金沢電気株式会社発足した発足時資本金25万円設立時間要したのは恐慌期と重なり株式払込長期わたったためと考えられる創業総会直後森下らが家政都合能登出身郡長務めた中川長吉株式譲渡したため、初代社長には中川就任した

※この「計画から発足まで」の解説は、「金沢電気瓦斯」の解説の一部です。
「計画から発足まで」を含む「金沢電気瓦斯」の記事については、「金沢電気瓦斯」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「計画から発足まで」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「計画から発足まで」の関連用語

計画から発足までのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



計画から発足までのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの金沢電気瓦斯 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS