計画から発足まで
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1893年(明治26年)10月、金沢市内の「戎座」にて、小型発電機によって電灯がともされた。これは歌舞伎役者実川勇次郎の一座が行った演劇に用いられたもので、名古屋市で4年前に開業していた名古屋電灯の出張点火事業を利用していた。これが石川県のみならず北陸地方で最初の電灯点灯事例とされる。翌1894年(明治27年)には、東京電灯の技師が5月の富山市に続いて設備を携えて金沢市を訪れ、7月から8月にかけて開催された第5回関西府県連合共進会の会場(兼六園・尾山神社)にてアーク灯と電灯を点火した。 共進会会場での点灯費用は当時の「金沢電灯」発起人と市ならびに県が3分の1ずつ負担していた。この「金沢電灯」というのは、江戸時代から続く菓子商「森八」の当主12代森下八左衛門らが計画していた会社である。1893年6月6日に県に対し火力発電による電灯供給事業を出願し、同年9月8日にその認可を得ていた。認可後、11月に火力発電ではなく水力発電を電源とする方針に転換、犀川から取水する寺津用水での発電所建設を取り決めた。こうした準備の中での共進会での点灯は事業の宣伝の意味があったとみられるが、1894年9月、日清戦争その他の影響で事業中止が決まった。 「金沢電灯」頓挫の一方で、旧加賀藩の士族で殖産興業政策に積極的であった当時の金沢市長長谷川準也は市営による電気事業を企画していた。そもそも森下らの電灯事業発起が長谷川の示唆によるものだと言われ、事業中止についても長谷川の介入があったためとみられる。長谷川は16燭灯の電灯1000灯と工場用電力60馬力の需要が見込まれると主張し、技術的には金沢電灯の発電所計画を踏襲した市営発電所案を金沢市会に提出する。審議は1894年11月より始まり、東京電灯技師長藤岡市助を招いた調査の結果、電灯60馬力(16燭灯1000灯)・動力用540馬力の合計600馬力すなわち400キロワットの規模に拡大するのが適当で、発電機についても最新の三相交流発電機を輸入すべきと結論付けられ、1895年(明治28年)7月10日に600馬力の市営発電所建設と事業費15万円の市債起債が市会で可決された。 金沢市は翌1896年(明治29年)3月に内務省・大蔵省から起債許可を取得し、同年7月13日には市内を供給区域とする電気供給事業の経営許可も逓信省より得た。こうして事業準備が進むものの、日清戦争後の物価高騰で15万円では起業できなくなった。市会では起債額を22万5000円とする案が審議されたものの民営論が強くなり、1897年(明治30年)5月31日、市会は従来の関係から森下八左衛門らに計画を任せると決定した。同年11月4日、森下八左衛門ら「金沢電気」発起人への事業継承が認可される。しかし会社設立は1年ずれ込み、1898年(明治31年)11月22日にようやく創業総会が開かれ、12月28日に農商務省の設立免許が下りて金沢電気株式会社は発足した。発足時の資本金は25万円。設立に時間を要したのは恐慌期と重なり株式の払込が長期にわたったためと考えられる。創業総会直後に森下らが家政の都合で能登出身で郡長を務めた中川長吉に株式を譲渡したため、初代社長には中川が就任した。
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