芸術家の村として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 07:43 UTC 版)
江戸時代まで田端村(現:北区田端)近辺は江戸近郊の農村であった。特に大根と里芋が名産品であった。明治時代に入り、1888年(明治21年)には田端村は近隣の村と合併し滝野川村となったものの、田畑と雑木林が豊かな農村地帯であったことには変わりがなかった。しかし、その前年の1887年(明治20年)に上野に東京美術学校(現在の東京芸術大学)が出来ると、そこへ通う下宿生が近隣である田端の地に暮らすようになる。 1896年(明治29年)には東北本線(京浜東北線)の駅として田端駅が開業し、また1903年(明治36年)には豊島線(現在の山手線の一部)が開通すると、次第に駅周辺に人口が集まるようになってくる。田端は農村から徐々に住宅地へ変わりつつあった。 そのような折、田端文士村の火付け役とも言える画家・小杉未醒(方庵)が1901年(明治34年)に、陶芸家の板谷波山が1903年(明治36年)にそれぞれ田端の地に暮らす。特に板谷波山がこの地に窯を作ったのは、田端文士村の形成の発端になったという指摘もある。というのも、直接的であれ間接的であれ波山がきっかけで、後に中心人物である芥川龍之介や室生犀星が田端の地に暮らすことになったからである。芥川は板谷波山の親友・香取秀真と、室生は波山の弟子吉田三郎との関係が田端で起こったことがきっかけであった。 小杉未醒も田端文士村の形成に大きな影響を持った。小杉は田端の地に居を構え、1908年(明治41年)頃に「ポプラ倶楽部」という組織を、山県鼎、倉田白羊、森田恒友ら田端在住の芸術家たちを誘って結成し、テニスや野球を楽しんだ。そして、やがて田端在住の作家達の倶楽部「天狗倶楽部」と合流し、一大組織となった。やがて、これらの交流から同業の画家の間で『方寸』という同人誌が造られ、多くの画家が小杉未醒などの田端在住の画家の家を行き来するようになり、田端近辺で暮らす画家も多くなった。この時代は電話もなければ、電車の本数も少なかったので、同業者は一つの土地に集まっていた方が連絡を取るのには合理的だったという見方がある。他に小杉は詩作や短歌の制作にも長け、「老荘会」という中国思想を研究する会を造ったり、「道閑会」という田端在住の文士・芸術家達の交流の場にも顔を出したりと、田端文士村の交流には欠かせない人物であった。 このようにして明治から大正にかけて、田端の街は芸術家の「梁山泊」となった。 こうして多くの芸術家が文士より先んじて田端の地に住み、それに触発されて多くの作家や詩人も住むようになり、やがて田端文士村が形成されたといわれている。
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