脳内リゾート開発~メディアマンの時代
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「高杉弾」の記事における「脳内リゾート開発~メディアマンの時代」の解説
1991年、AV監督を引退。同年、前衛芸術家の赤瀬川原平らとステレオ写真の愛好団体「脳内リゾート開発事業団/ステレオオタク学会」を結成。同時期にカルチャー雑誌『月刊スパイ』で「倶楽部イレギュラーズ」の連載を開始するが、高杉が企画したSEX特集をめぐって雑誌が回収騒ぎとなる。その後、同誌休刊のため連載を『月刊漫画ガロ』(青林堂)に移し11月号から連載を再開。この年、友人のデザイナー丸山浩伸が他界。 1992年、先天性の脳の畸形、くも膜下嚢胞が判明。 1993年3月1日、結核で国立療養所中野病院に79日間隔離入院。入院中は食事を1日1500kcal以下に制限されていた為、退院後は体重が40kgを切る。この頃、東陽片岡と会う。同年、雑誌『ガロ』9月号の特集「三流エロ雑誌の黄金時代」に協力し、元青林堂の南伸坊と白夜書房編集局長の末井昭と鼎談する。 同年、国際ステレオ写真会議に出席のため赤瀬川原平や南伸坊らとイギリスへ旅行。帰国後、視神経障害による視力悪化のため『ガロ』の連載を休載。その後、眼孔注射で右眼の視力が回復し、CD-ROM写真集『美麗死体写真集 Lilly』『極楽蓮』創刊号を自主制作してトライアングルで販売する。なお『美麗死体写真集 Lilly』は1930年代を中心とした幼児から老人まで90枚の死体写真をピックアップしたものでマイナーレーベルの作品としては異例の1500枚を売り上げた。 この年、香港の九龍城砦が消滅。借金返済不能の危機が迫る。 1994年12月、バリ島へ長期旅行。ギャニャール県ウブド郡でウブドの王族に会う。この年「メディアマン」というコンセプトを強化する。 1995年1月、バリ島からサムイ島に移動し、ハンモックの上で阪神・淡路大震災を知る。2月末にシンガポール経由で帰国。 同年12月、現状最後の単行本となる私小説『香港夢幻』(大栄出版)を上梓。高杉は同書で「エロ本編集者をリタイアして15年、雑誌に短い原稿を書いて受け取る報酬だけではとても生活できないぼくは、今日まで借金とギャンブルで食いつないできたと言ってもいい。思えば大学を中退して以来、先のことなど何も考えず、自分自身の快楽を最優先してその日その日を生きてきた。経済的な困窮に陥ったとき、借金とギャンブルだけがぼくに手を差し伸べてくれた。そして、金を貸してくれる相手と博打さえあれば自分は生きていけるのではないかと錯覚し、そういう自堕落な生活の中で、ぼくは次第に経済観念を失っていったのだった」と述懐する。同年、連載「高杉弾通信」が72号で終刊。 1996年、伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』の発行人であった元群雄社出版の明石賢生社長が他界。同年、荒木経惟のドキュメンタリー番組の製作に協力したほか『アサヒグラフ』のパロディCD-ROM写真集『アラキグラフ』(光文社)の編集に参加。 1997年、月刊漫画『ガロ』1997年3月号で特集「僕と私の脳内リゾート―ブレイン・リゾーター高杉弾とメディアマンのすべて」が組まれ、高杉の幼年期から学生時代、自販機本時代、作文家時代、トライアングル時代、AV監督時代、そしてメディアマンへと至るまでの自筆年譜と主要な仕事を120点以上の図版を交えて16頁にわたり紹介。 同年、サブカルチャー雑誌『Quick Japan』(太田出版)が12~19号(18号を除く)にかけて「天国桟敷の人々」という題で『Jam』『HEAVEN』を主軸にした自販機本特集を組む。この特集では群雄社に出入りしていた竹熊健太郎と但馬オサムが佐山哲郎、小向一實、近藤十四郎、隅田川乱一、安田邦也、山崎春美ら当時の関係者にインタビューを敢行し、高杉弾は『Jam』『HEAVEN』初代編集長として連載最終回でトリを務め、竹熊のインタビューで直近の月収が2万円を記録したことなどを述べる。 同年7月、青林堂の内紛で『ガロ』が休刊。他にも掲載誌の休廃刊が相次ぎ、積年の借金苦に加えて原稿依頼も無くなったことから隠居生活に入る。 作文家以外には、アダルトビデオ監督、競馬の予想屋、商品先物取引、雑貨屋経営、違法賭博、借金などで生計を立てることもあったが、結局生涯にわたって定職を持つことはなかった。
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