羽柴家の家臣としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 羽柴家の家臣としての意味・解説 

羽柴(豊臣)家の家臣として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:31 UTC 版)

黒田長政」の記事における「羽柴豊臣)家の家臣として」の解説

天正10年1582年6月本能寺の変信長明智光秀襲撃によって自刃すると、父と共に秀吉に仕える秀吉備中高松城攻め従い初陣冠山城戦いなど中国地方毛利氏方と戦った備中高松城の戦い)。 天正11年1583年)、賤ヶ岳の戦いでも功を挙げて初め河内国内に450石の領地与えられる天正12年1584年)、小牧・長久手の戦いでは大坂城留守居務め雑賀衆根来衆菅達長率い長宗我部水軍戦った。その功績により、加増2,000石を与えられる天正15年1587年)、九州平定において、長政自身日向財部城攻め功績挙げた戦後父子功績あわせて孝高に豊前国中津125,000石が与えられた。しかし豊前の国勢力懐柔するのは困難であった。その中の有力領主一人城井鎮房宇都宮鎮房)は秀吉出陣要請に対して病気称して自身出陣せず、息子城井朝房僅かな手勢付けて参陣させた。だが、このような鎮房の態度秀吉不信抱き以後豊前国治世の困難を憂慮して九州平定後、鎮房に伊予国への移封命ずる。移封加増伴ったのであるが鎮房は先祖伝来の地に固執して朱印状受け取り拒否し秀吉怒りを買うに至る。 この期に及んで穏便に事を修めることが不可能と悟った長政城井谷を攻撃したが、地の利のある鎮房のゲリラ戦術苦戦した。そこで黒田父子付け城築いて兵站を断つ持久戦法をとり、他の国勢力各個攻め下していった。これが功を奏し形勢逆転し、鎮房は12月下旬13歳になる娘・鶴姫人質差し出すことを条件和議申し出、それが受け入れられ鎮房は恭順誓った。しかし、秀吉承認を得ることは出来なかった。秀吉承認を得ることができない知った長政は、城井一族誅伐決心した天正16年1588年4月20日長政は鎮房を中津城招いたが、家臣団城下合元寺留め置かれた。わずかな共の者と中津城入った鎮房は、長政の手によって酒宴の席で謀殺された。そして黒田勢が合元寺差し向けられ斬り合いの末に城井家臣団全員討ち取られた。さらに黒田勢は城井谷城攻め寄せて陥落させ、鎮房の父・城井長房を殺害したまた、鎮房の嫡男城井朝房は、黒田孝高従い一揆鎮圧のため出陣していたが肥後国で孝高によって暗殺された。こうして城井氏勢力殲滅成功した長政は、人質鶴姫13人の侍女と共に山国川の畔、広津千本松河原で磔にして処刑した天正17年1589年)、父が隠居したために家督相続許され同時に従五位下甲斐守に叙任した。

※この「羽柴(豊臣)家の家臣として」の解説は、「黒田長政」の解説の一部です。
「羽柴(豊臣)家の家臣として」を含む「黒田長政」の記事については、「黒田長政」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「羽柴家の家臣として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

羽柴家の家臣としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



羽柴家の家臣としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの黒田長政 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS