第1次吉田内閣における裁判官任命諮問委員会
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第1次吉田内閣において、裁判官任命諮問委員会規程案が1946年4月16日に閣令第14号として公布、施行された。委員として、「大審院長たる判事(細野長良)」「大審院以外の裁判所に在職する判事」「行政裁判所長官(澤田竹治郎)」「司法次官(谷村唯一郎)」「貴族院議長(徳川家正)」「第92回帝国議会において衆議院議長であった者(山崎猛)」「帝国学士院の第一部長たる帝国学士院会員(山田三良)」「東京帝国大学総長(南原繁)」「日本弁護士連合会の総務理事で東京弁護士会、第一東京弁護士会及び第二東京弁護士会の各々の会長たる弁護士(塚崎直義、長谷川太一郎、真野毅)」と規定された。 「大審院以外の裁判官に在職する判事」については他の10人の委員が複数の候補者を指名してその中から首相が委嘱する手続きとなっていた。東京民事地裁・東京刑事地裁・東京区裁判所では判事が選挙を行って得票順に5人の候補者を挙げ、東京控訴院は幹部による話し合いで候補者を挙げた。細野は東京控訴院による東京控訴院部長の三輪昌治を推したが、選挙結果を重視すべきという意見が多数派となり最終的に東京民事地裁上席部長の堀内信之助と決まった。反細野派は弁護士会だけでなく裁判官内にも事前工作を行い、堀内も反細野に回った。 新憲法の施行日まで時間が切迫しているとして反細野派の委員はただちに最高裁判所裁判官の候補者を30人に絞る選考に入ろうとすると、細野は委員として「1944年の東條演説事件に対して私が抗議する意見書を提出した際に重責を担う監督的役職にいながら一言も抗議を発しなかった者は最高裁判所裁判官の資格を欠く」と演説して裁判官選出に基準を決めることを提案したが、細野の提案は南原以外に同調者はおらずに却下された。 11人の委員がそれぞれ30人の候補者の名簿を提出され、60人を超える最高裁判所裁判官の候補者について11人の委員が信任か不信任の投票をしていく方法が取られ、4月22日に以下の30人が決定した。 10票 澤田竹治郎、塚崎直義、長谷川太一郎、真野毅、末川博、三谷隆信 9票 有馬忠三郎、岩松三郎、海野晋吉、草野豹一郎、佐々木良一、島保、藤田八郎、谷村唯一郎 8票 金森徳次郎、齋藤悠輔、庄野理一、島田武夫、竹田省、森田豊次郎 7票 木村篤太郎 6票 入江俊郎、井上登、奥山八郎、白銀朝則、高柳賢三、細田潤一郎、松本静史 5票 霜山精一 4月23日に候補者と決まった30人の中から、最高裁長官候補者3人を選ぶ投票が行われ、金森徳次郎、木村篤太郎、霜山精一が最高裁長官候補として首相に答申された。 なお、新憲法施行に備えて3月31日に衆議院が解散され、4月25日に総選挙が行われる政治日程が組まれていた。吉田茂は大日本帝国憲法下で大命降下されて貴族院議員として首相になっており、国民の審判を受けていない者が首長である内閣の下で新憲法施行に伴う最高裁裁判官人事を決めることにGHQで違和感が噴出した。GHQ司令官のダグラス・マッカーサーは「最初の最高裁判所裁判官は新憲法の下に選ばれた最初の内閣により指名・任命されるべき」旨の4月23日に発令し、4月24日に内閣に到着した。 4月25日に投票された第23回衆議院議員総選挙では日本社会党が第一党となったことで、第1次吉田内閣は退陣し、第1次吉田内閣における裁判官任命諮問委員会の結果は幻となった
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